destiny over

―1―

 追われている事への恐怖感よりも、立ち向かう事の出来ない弱さの方が強かった。涙は枯れ果てた。流れ出る雫は自分への憤りでしかなかったが、年端もいかない少女は、それを抑える術を持たなかった。

 立ち止まるわけにはいかない。目指すヴェルジュはまだ遥か先でサーシャを待っている。

 そんな時、随伴するケイトの表情が俄かにだが曇るのが見て取れた。同時に、たった数分前に駆けた地から、無数の蹄の音が聞こえてきた。

 悔しい。ここまでなのか。私達を捕らえたら、ゴッダはどういった行動に出るのだろう。想像に難くない。宰相の身で王女たるサーシャを傷つける事は適わないが、母リーザ王妃と同様、先の見えない幽閉生活が待っている。ケイトに至っては、おそらくその命すら明日が待ってはいないだろう。

 港町が見える。サーシャが愛し、父ロファール王が育てたこの国の姿が、歪んで見える。悔しさがまた、瞳から頬へと流れ落ちようとする。私は、この国を愛した。しかし、それ以上にこの国を護る事が出来なかった。

 涙を堰きとめ、キッと海の向こうを見やる。まだだ。まだ諦めてはいけない。まだこの足はある。まだこの命もある。まだ、この国だって、あるのだ。父ロファールはサーシャのこの姿を見て何を思うのだろうか。バルト戦役でその消息が断たれて以来、しかしサーシャがその存命を疑った事はない。父は、サーシャの姿を見て、おそらく言ってくれるだろう。

「よく頑張った。お前は紛れもないウエルト王国の王女であり、私の自慢の娘だ」

 堰きとめたはずの涙がついに溢れ出す。ただ、これまでと違ったのは、自らへの憤りなどではなく、初めて見せた、自分への許しの言葉。そしてそれを合図に、ソラの港の架け橋が降りた。

 その向こうには見た事もない騎士団、見た事のある国紋、忘れもしない君主の姿が見て取れた。

「リュナン・・・様?」

 未来が拓ける。そこには、明日の向こうが広がっていた・・・。

―2―

 ウエルトの風がリュナンの頬を撫でる。戦乱を感じさせない潮の匂いを含んだそれはひどく懐かしく、今という現実を一瞬だけ、海の向こうへ流してくれた。だが、その一瞬もすぐに終わりを告げる。自分が公国の公子としての、いや、そんなことよりも一人の人間として成すべき事を流すわけにはいかないのだ。一瞬の休息にリュナンが瞳を閉じた時、傍らのオイゲンが口を開いた。

「ようやく橋が降りまするな。ここからが、我々の、本当の闘いですぞ」

 オイゲンの言葉に頷きだけで肯定の意を返すと、仰々しい木々の軋む音と共に、徐々に目の前の河川に橋が降りていった。

「あれ?何か来ますよ」

 ラゼリアからリュナンに侍従してきたアーキスが目を丸くする。このアーキスとクライス、そしてまだまだ実践的な経験に欠けるリュナンの軍に、親友であり海賊シーライオンの長であるホームズが同行を許してくれた斧戦士ガロの四人が、リュナン軍の全貌である。軍と呼ぶにも人数も、そして実戦経験にも欠ける脆弱な部隊だが、祖国ラゼリアを失い、その奪還のために止まる事を潔しとしないリュナンの全てでもあった。

「様子が変ですね。何かに追われてるような・・・」

 クライスが騎馬の手綱を握り直しながら遥か前方を見やる。リュナンにとっては伸ばし尽くした手の小指の、しかも爪にも満たない程度の小さな姿ではあったが、確かにそれらは確認できた。その後、もはや砂粒ほどにしか見えないが、無数の「何か」もこちらに向かっているようだ。

「中々に厄介な事になりそうですぞ」

「最初から何事もなくすむ戦いなんてない。行くぞ!」

 リュナンの一声でまず、アーキスとクライスの二騎兵が先陣を取る。リュナンとガロの二人はその後を追うように橋の上を駆けた。以前の大きな戦いの中、ひどい負傷を負ったオイゲンは、いかな昔は名の知れた戦士であれ、剣を握る事すら出来ない身体になっている。

「公子!こちらに向かってるのはウエルトのサーシャ王女です!その後ろは・・・騎馬兵が6〜7騎といったところです!」

 端を渡り切り、海を右手に海岸となっている砂上で、クライスが叫ぶ。その間もアーキスは前方を睨み、対として隙を見せていない。

「サーシャが!?・・・くっ。急ごう」

 ウエルトの国情は海を隔てたラゼリアにも届いていた。国王であり、大陸五賢王にも数えられるロファールがバルト戦役以後消息を絶ち、宰相のゴッダが半ば強引にウエルトの実権を手にしている。つまり、ロファールの娘であるサーシャが追われる理由は想像に易い。そして、それを見逃すわけにはもちろんいかなかった。腰に据えられた柄を握る。一年間、ラゼリアで激動の中を共にしてくれた愛刀に、再び頼る時がやってきたのだった。

―3―

 一つの光明が見えた。一体どういった経緯でラゼリアのリュナン公が海を挟んだこのウエルトまでやってきたのかは解らなかったが、それでもサーシャにとっては苦行の果てに見えたただ一つの光りであり、そして手段でもあった。

「サーシャ様」

 ケイトがサーシャを見やり、コクリと頷く。ウエルトの王宮から走り続けた脚の疲労は、限界に近づいていた。向こうもサーシャ達に気がついたのだろう、先行して騎兵二騎がスピードに任せて接近してくる。間違いない。リュナンお付きのクライスとアーキスの両名だ。サーシャとケイトの二人は立ち止まり、両騎兵を迎える。しかし自分たちの後方からは、休むことなく蹄音が近づいてくる。

「やはりウエルトのサーシャ王女でしたか。いかがされたのです?」

 アーキスとクライスは二人の前で馬を止め、その内のクライスだけが降り、サーシャと向かう。アーキスよりも礼儀を重んじるクライスが一国の王女を前にして決まった儀礼を飛ばしているのは、明らかに状況が予断を許さないと判断したからだ。そしてサーシャもケイトも、それを十分に理解していた。

「ウエルトを救うため、王女が自ら立ち上がられました。ヴェルジュのマーロン伯のご助力を・・・」

「おっと、悠長にお話している時間はなさそうだぜ。あれ、追っ手だろ?」

 アーキスが視線を動かさずに、腰元の鞘から細身の剣を引き抜いた。一瞬刀身が陽光を弾き、サーシャの目に飛び込む。真っ白な世界の奥で、人の命が乱舞する景色が見えた。夢想ではない、明らかに遠くない未来で待っている光景に思えた。

「サーシャ様!」

 ケイトが驚いた表情でサーシャの右腕を掴んでいる。知らずのうちにサーシャが自分の右腰に添えられた、護身用の刀剣を掴んでいたのだ。世界が暗闇に染まる。自分が、この手で、この刀剣で、人を傷つけ、そして命を奪う。ケイトの瞳が悲しみを帯びたものに変わるのが解る。

「二人とも、下がっていてください。とにかくこの場は・・・」

 クライスがその様子を汲み取り、自分もアーキスに倣う。実戦経験が豊富なわけでも、大陸で名を馳せるほどの剣技も持ち合わせてはいなかったが、一人の騎士として、女性が戦いの場に居合わせることを嫌うクライスの、当然の配慮だった。

「リィナ・・・」

 知らずのうちにクライスは妹の名を口にしていた。

―4―

 リュナンとガロの二人がサーシャ達と会話が出来る距離に近づけた頃には、すでに彼女達を追っていた騎馬兵も、その数も容易に確認できるほどに距離を縮めていた。サーシャはリュナンに何か言いたげに口を開こうとしたが、ケイトがそれを制し、リュナンと目配せをすると、そのまま後方に駆けていった。相手は騎兵が四騎、そして歩兵が二人。こちらは騎兵二騎の歩兵が二人。ただ、相手もかなり長い距離を走ってきたのだろう、隊列にバラつきが見受けられる。どうやら率いている人間は、さほど賢い方ではないようだった。

「アーキス、クライス!一対一のあと一旦下がるんだ!」

 リュナンが叫ぶと二人は共に右手の剣を掲げた。視線を外す事の許されない状況での、了解の意を表す方法だ。そして、大きな蹄音が土を削る。二人が駆けた。ギィン!という鉄の打ち合う音が海岸に響く。リュナンとガロは前方の二人に視線を合わせながら右前方へ走り、足場を砂地へと変える。馬の速さによるものだろう、今アーキスとクライスが剣を向け合っているのは二騎。しかし・・・。

「気をつけろ!後方に弓兵がいる!」

 時間にしてあと数十秒で辿りつく後方の兵の中に、二名だが弓を構える姿があった。その声はその場全てに響いたのだろう。弓兵は攻撃態勢を維持したまま目標をリュナンに切り替えたようだった。やはり、場慣れしていない。不意打ちでない弓の一撃など、避ける事も、薙ぎ払う事も難しいことではない。弧を描いて迫り来る矢は見当違いの方向へ飛び、砂地に突き刺さった。一人はそれに気付き、目標を前線の二人に定める。

「ぐぁぁ!」

 狙いを定める時間が足りなかったのだろう、矢はやはり誰にも触れることなく過ぎ去っていったが、代わりに兵が一人その場に落馬し、崩れ落ちる。一見した外傷は見受けられない。しかし、ピクリとも動かないところをみると首の骨でも折れたのだろう。まだ息はあるようだったが、そう長くはない。これで五対四。そして同じくアーキスと対峙していた兵が無言のままやはり馬から崩れ落ちた。

「な、なんだこいつらは」

 おそらく相手の長だろう。一目してそれと解る、重層な鎧を着こなした男が馬を止める。リュナンとガロの位置からは左前方。アーキスとクライスからは右前方の、ちょうど砂地との境目。直線距離は100mといったところか。馬ならば六秒もあればその差をなくす事が出来る。

「私はラゼリアのリュナンだ。ウエルトのサーシャ王女からの請いを受けた」

 もちろん虚言である。だが、

「なんだとっ!そんなことはゴッダ様は一言も・・・」

「なるほど、やはりゴッダの差し金か。察するところ、サーシャ王女に反逆の罪を着せ、その機に乗じて、といったところか」

 男の目の色が変わる。

「あの小僧を殺せ!」

 こういった男は長生きできない。だが、本当に哀れむべきは、そういった無能な将に率いられた兵なのだろう。弓兵二人を残しただ一騎で鉄製の槍を携えた兵がリュナンへ突進してくる。リュナンも全速で相手へ駆ける。一般的に歩兵は騎兵に対して分が悪い。見下ろすことと見上げる差というものもあるが、それ以前に馬そのものがまず武器なのである。正面からぶつかればもちろん無事ではすまない。兵は相手の攻撃を避けることに専念するだけでいい。もちろん、馬を御せなければ意味はなく、落馬という危険も孕んではいるが、圧倒的に有利なのは間違いない。

「うわぁ!」

 ただ、馬はそれほど丈夫ではない。数百キロという巨躯を細く美しいたった四本の脚で支えている。その結果、急激な足場の変化にはついていけないのが普通だ。この場合も例外はなく、鈍く嫌な音を立てて、砂地へ入ったところで、馬そのものが崩れ落ちる結果となった。落馬は戦闘不能を意味する。約150cmから地面へ、加えて予期できない落下は、裂傷、骨折、下手をすれば愛馬の蹄の下敷きになる事もある。

「ぐ・・・あ」

 兵はうめき声を挙げるがもはや立ち上がる事もできない。馬は嘶き、砂地の中でもがいている。前脚のどちらか、もしくは両方を折ったのだろう。こうなっては罪のない生き物でも救う事は不可能だ。兵は、気を失ったのだろう。そのまま動かなくなった。

「リュナンさん!」

 ガロの野太い声に視線を上げる。刹那、ガキン!という金属音が視線のやや上で起きた。そして目の前に落ちる二本の矢。

「ちっ」

 弓兵の一人が舌打ちするのが聞こえた。紛れもなくリュナンを狙ったものだが、それを阻止したのは・・・、

「君は・・・」

 ケイトだった。手にはボウガンが握られている。飛来する矢を狙いすまし、撃ち落すその腕は、決して偶然の賜物ではないだろう。その時、一層大きな、蹄が地を抉る音が響いた。男が一瞬の空白をついて駆け出したのだ。その先には、サーシャがいた。

「しまった!」

「くっ、ここまできて手ぶらで帰れるか!王女の首だけはもらっていくぞ!」

 速い。単なる将という器に座った偶像ではない。初歩からトップスピードに近い速度を出すには馬との信頼関係ももちろんだが、加えてかなりの鍛錬が必要になる。この男は、いとも容易く馬を御し、気付いた時には猛烈な勢いでリュナン達とクライス達の間を割り、駆け抜けようとしていた。リュナンは思わずアーキスとクライスに追撃を指示しようとするが、その時、目の端で弓兵二人が共に攻撃体勢に入るのを捕らえた。

「アーチャーだ!」

 リュナンが叫ぶ。アーキスとクライスは意図を察し、男とは正反対に二人の弓兵へと突進する。恐れを抱いた弓兵は急遽目標をリュナンから二人に切り替えるが、落ち着きを失った矢が二人を捕らえる事はなかった。弓矢での攻撃は攻撃の間に一定以上の間隔を必要とする。その隙をつけば、討ち取るのにこれ以上易い兵もそうはいない。二人の断末魔が海岸に響く。これで、一対四。

「サーシャ!」

 リュナンが全力で駆け寄ろうとするが、男が操る馬に届くはずもない。男の目線の先、そこには青い髪をした、ただ一人の少女しかいなかった。少女は刀剣を構えてはいるが、その手が震えていることは明らかだった。ビン!とケイトのボウガンが撓る。だが、その矢は僅かに男を逸れた。おそらく男の向こうにサーシャがいることが、狙いを定める足枷となったのだろう。ケイトが絶望からか両膝を着く。

「私怨はないが・・・な!」

 男が剣を振り上げる。突進してくる馬と、振り下ろされようとする刀剣。ケイトは思わず祈った。

「ユトナ神よ・・・!どうか・・・!」

―5―

 父の大きな後ろ姿があった。大陸五賢王の一人、かつては大陸六勇者の指に数えられるほどの英雄も、サーシャにとってはただ一人の父親でもあった。優しい父であった。そして何より強い父でもあった。その父がバルト戦役で消息を断った。出立前、ロファールはサーシャの頭を軽く撫で、父親ではなくウエルトの国王としてこう言った。

「意志を強く持て。もし私に何かあっても、決してうろたえてはいけない。この国をお前に預ける。まだその手には余りある大きさであり重さであろうが、自らを信じ、志を強く持て。私が還ってくるまで、ウエルトを、頼む」

 父は還ってくると言った。嘘を言う人間でない事はサーシャが一番解っているつもりだった。だからこそ信じ、ただひたすら待った。だが・・・。

「ロファール王は残念な事になりましたな」

 コッダの顔が思い浮かぶ。表情こそ悲しみを表してはいるものの、その内心では笑いを堪えられないといった醜い心情を隠している事は、サーシャにも理解できた。屈辱だった。父はサーシャを信じ、この国を託していった。その期待に、応えられない自分がただ、悔しかった。

「私が!強くないから!」

 サーシャが叫ぶ。目の前にはただ、脅威。自分がこのまま微動だにしなければ、間違いなく待っているのは死だ。そしてそれは、この国への、父ロファールへの、そして何より自分自身への裏切りであるという事を、齢幼き少女は解っていた。

「なにっ!」

 サーシャが右手に握られた短剣を男に向かって投げつける。しかし想像しなかった行動にも男は動せず、自らの右手に握られた刀剣を右上に薙ぎ、短剣を排した。ただ、その拍子に左手で握られた手綱はやや左へ引っ張られた形となり、馬はその命令通り進路を僅かにだが右へと変えた。サーシャがその一連を予想通りとばかりに右へ倒れこむ。少女の勝ちだ。男を乗せた騎馬はサーシャのわずか1m右を駆け抜ける形になった。

「サーシャ!」

 リュナンが駆けつける。サーシャは立ち上がり身体の土を払い落とす。向こうで男はようやく進路を整え、こちらを睨みつけるように立ち尽くしていた。どう出るか。引いてくれればそれで良し。向かってくるならば・・・。

「ルース、答えなさい。狙っているのは私の命ですか」

 サーシャが気丈に問いかける。ルースというのは男の名らしかった。ルースは口の両端を僅かに吊り上げ、口を開いた。

「いや、この場にいる全員だな」

 サーシャの身体がビクンと揺れたのがリュナンにもケイトにも見て取れた。状況はどう見ても男が引くしかないように思えた。絶対的な自信の表れか、それともただのブラフか。ウエルトの潮を含んだ風が場を通り過ぎる。この場の全員が微動だにしない。一瞬か、それとも数分が過ぎたか。場を崩したのは後方に待機していたはずだったクライスだった。

「行きます!」

 クライスの愛馬の嘶きと共にリュナン達を過ぎる。ルースの向こうには何時の間にか後方に回りこんでいたアーキスの姿もあった。

「二人掛かりか。とんだ騎士だな!」

 ルースもアーキスには気がついていた。ただ、このまま背を向ければケイトのボウガンの餌食になるのが解っていたのだ。クライスがルースに突き進み、アーキスもまた、同じ行動に出る。ルースにとってみれば左前方からクライスが、右後方からアーキスが襲いかかる。後方はもちろん、馬の性質上どの方向に移動しても、逃れらなれないと思えた。

「騎士とは何よりも信じる志を重んじるものの総称だ!」

 クライスが刀剣を鞘に収めたまま距離を詰める。瞬時に「抜く」ことを意味している。後方から差を詰めるアーキスも同じくだ。

「覚悟!」

 二人が同時に鞘から抜き、その勢いを保ったままルースの首を狙う。通常、避ける事は容易ではない。左前方と右後方から水平に、しかも同時に襲いかかるのである。前後左右の移動はもちろん、手にした獲物で渡り合えるのはせいぜい前方の一つのみ。だがルースは余裕を持って避けて見せた。絶妙の時点で身体を仰向けたのだ。目の前で交錯する二つの死を前に、ルースは笑みさえ浮かべていた。

「面白い作戦だ。普通はどう対処していいか解らずされるがままなのだろうな」

 ルースは身体を立て直すと刀剣を握り直し、言った。明らかに余裕を持っている。

「では・・・、一人ずつ死んでもらおうか!」

 鹿毛の馬がリュナン達に向かう。アーキスが体勢を整えなおすのは間に合わない。もはや先程のような足場を利用した戦法も使えない。相手は素人ではない。生半可に仕掛ければ、逆に窮地に陥るのはこちらかもしれない。リュナンは一瞬、迷いを見せた。

「小僧!戦闘中にうろたえるのは愚の証拠だぞ!それでも将と言えるのか!」

 リュナンのこめかみを一縷の汗が滴り落ちた。

―6―

 柄を握り直す。視界が急速に狭まり、瞬間が瞬間を追い抜かさない。自らの鼓動の音も克明に聞こえる。ルースがその剣を振り上げる。薙ぎ払うのではないこの攻撃を回避するのは実は容易だ。横に薙ぎ払われた場合、回避する選択肢は「屈む」か「弾く」かしかない。だが、屈んでしまった場合、それを読まれては馬の蹄に襲われる可能性が高い。自分の獲物で迫りくる刀剣を弾こうとしても、相手よりも優れた腕力が必要となり、その条件を満たさなかった場合もまた然りである。だが、馬上から縦に振り下ろされる場合、身を翻すだけで事が済む。

「くっ!」

 しかし判断の遅れたリュナンは、倒れ込まなければ避けることが出来なかった。ルースの鉄剣が空を切り、耳元を空気の裂ける音が通り過ぎる。視界の全てを白に奪われ、倒れ方が良くなかったのか横腹に鈍痛を感じる。蹄の音がリュナンから遠ざかり、そして止まる。

「リュナン様!」

 クライスとアーキスが左右から駆け寄る。空気が一瞬にして変化するのが、その場にいた全員が感じ取ることが出来た。良くも悪くもこれが「将」の存在である。状況はほとんど変わらない。ただ、得体の知れない危機感が腹の底から湧きあがってくるのをサーシャは感じていた。額から雫が流れ落ちてくる。それを拭う事も忘れ、ただルースを凝視する。目を離した途端、その危機感が現実のものになるかもしれない。それが戦闘なのだ。

「サーシャ様。今のうちに早く」

 クライスが空気に混じるかのようなか細い声でサーシャを見ずに、声だけを後方へ送る。しかしその直後、クライス自身がサーシャが首を振ったことに気づいた。

「私は、ウエルトの王女なのです」

 その一言だけでよかった。これがウエルトの賢王ロファールの娘の姿である。その一言を搾り出すために、この少女は経験したことのないような恐怖と、これから待ち受ける苦難に立ち向かう決意を改めて確認したのであった。そしてそれを一番強く感じ取っていたのが他ならないリュナンである。

「こんなところで立ち止まるわけには、いかない」

「ホームズの旦那に笑われますぜ」

 ガロの言葉に、リュナンは思わず苦笑した。先ほどまで談笑を交わしていた親友でありよき理解者でもあるホームズの姿が思い浮かぶ。彼なら、今のリュナンを見てどんな言葉を口にするだろうか。

「何か考えることでもあるのか?」

 柄を握り直す。何も迷うことなどない。ただ目の前の危機を乗り越えなければ、これから成すべきことの姿さえ露と消えるのだ。一歩を駆け出す。ルースもまたそれを予期していたかのように愛馬に気合をつけた。潮風が靡く。耳の奥が重圧で潰されそうな苦痛を感じながら、それでもサーシャは目を離さない。同じ「将」としての立場にある以上、サーシャがリュナンから学ぶべきことはいくつもあった。

「小僧!見上げた根性だが、情で理は覆らんぞ!」

 ルースが叫ぶ。振り上げた大剣が空気と風を裂く。勢いよく蹴り上げたリュナンの右足からいくつかの土が跳ね上がる。振り下ろされるよりも先に、リュナンが跳躍したその先にあるのは、ルースそのものである。

「ぐ、あ!」

 半ば体当たりする格好でリュナンがルースを馬上から突き落とす。予想外の行動に手綱を持つ左手が離れる。真後ろの方向に落馬する格好となったルースは、受け身を取ることすら出来ずに頭から落ちる形になった。よくて脳震盪、打ち所が悪ければ首の骨が折れている。急なアクシデントに馬は二・三駆の地点で立ち止まっていた。事態を危惧してボウガンを構えていたケイトが安堵した吐息とともに力なくそれを地に落とした。浜辺に響く銃器の音響が、この戦闘の終わりを示していた。

―7―

 港町の夜はこのウエルトの今の姿をあらわすかのように重い静けさに包まれていた。肌寒さを感じるような月夜の空を相手に、リュナンは一人今日の出来事を思い返していた。ルースはあの落馬ですでに絶命していた。首の骨を折ったのだろう、口と喉元から夥しい出血で、その生死は誰が見ても明らかだった。戦いが「将」である自分を作り上げていく事実に、リュナンは嫌悪していた。動乱の中祖国をカナンに奪われ、口惜しく情けない苦難を経験してきた。数少なくなった部下を引き連れ、逃げるようにラゼリアからウエルトまでやってきた。

「私が!強くないから!」

 リュナンの脳裏に、サーシャのあの力強い声が蘇る。あの眼と決意は、「将」としての資質を余すところなく現していた。あの言葉を背に、自分というものを見失い、ルースに失態を見せる結果となったことに、リュナン本人も気づいていた。おそらくそれはアーキスもクライスも同じだろう。だからこそ、町の灯の届かない地に一人でも、二人はリュナンに随行しないのだ。

「リュナン様」

 波の音に掻き消されそうなか細い声がリュナンに届いた。

「・・・サーシャ」

 思えば随分と久しぶりの再会があれである。だが、そんなことはお構いなしにサーシャは、いや、ウエルトの王女は膝を折り、頭を垂れた。

「この度は、私が至らぬばかりにリュナン様に多大なる苦慮を・・・」

「サーシャ」

 リュナンはサーシャのほうへと向かず、ただ一人、空に呟くように言葉を続けた。

「戦いの中、人を導かなければならないということは、難しいことだな」

 自嘲を込めたリュナンの言葉は、自らを戒める言葉となり、二人の心に静かに浸透しながら、空中に霧散した。

「私は、ケイトがいなければただの小娘です。立ち上がることが出来たのは彼女のおかげです」

 サーシャは立ち上がり、同じくリュナンとは向き合わずに、隣り合って空に向かい、呟いた。

「母がコッダに軟禁され、あのままでは私もそうなることは、時間の問題でした。悔しくて、でも立ち上がることが出来なくて。でもケイトが私にこう言ったんです。「人は生まれながらにして背負っている運命、宿命といいますが、それを秘めています。私の宿命はサーシャ様に危機をもたらす全てに対しての排除です。そして私はそのことに対して絶大な誇りを持っています。サーシャ様をお護りする事で初めて、ケイトという人間の存在意義を、自分で、認めることが出来るんです。サーシャ様は、ここでこうやって泣いていることが、自らの運命だとお思いなのですか?」って」

 あのルースと対峙し、退く気配すら見せなかった気丈な少女は、自らの涙を背に隠し、成すべきこと、自分のあるべき姿へ向けて真っ直ぐに突き進んでいるのだということが痛いほどよく解った。あの時、自分とサーシャを比較するという愚行を犯し、結果生命の危機にまで呼び込んだ自分に足りないものは、もしかしたらそれだったのかもしれない。祖国解放を使命感と捕らえ、息苦しさを感じることもあった。それを宿命だと位置付ける強さを、持てないままで今まで戦ってきたのだろう。この年端もいかない少女からリュナンが学ぶこともまた、いくつもありそうだった。

「私の宿命は、父を信じて待つことと、それまでこのウエルトを護り続けていくことなんです」

 海の向こうの見えない地から運ばれてくる微風が、この瞬間にだけ途絶えた。気のせいだったかもしれない。笑って言えるこの強さを持ちたいと、リュナンはこの時確かに感じた。そして再び風が潮の匂いを運んでくる。この向こうの広大なラゼリアの地を思うと、この決意を自分のものにしなければならないのだと、深く心に刻み込んだ。気がつくとウエルトの風は、リュナンを優しく迎えてくれていた。

「ロファール王は、素晴らしい国と、それを思う素晴らしい愛娘をお持ちだな」

 リュナンが呟いた言葉は、一瞬のつむじ風に遮られ、サーシャの耳には届かなかった。まずはラゼリアの解放。自らの宿命とサーシャの宿命が重なるのなら、強大な苦難の壁も、乗り越える勇気を持ち続けられるかもしれない。この一歩は後退じゃない。確かな未来への一歩なんだ。

 そしてその未来は自分が創りだす。自分でなければ創ることの出来ない未来を、おぼろげながらリュナンは感じていた。

―Fin