Can’t suspect contemplation

−1−

 ピリピリという、いつもの鈍い音を伴って袋の中を見やる。目の前には先ほどすでに胃の中へと押しやったカプセルの錠剤が、残骸を残して捨て置かれている。これがいつもの情景。口にするものの多くは、この白い粉末であったり、無味無臭の錠剤であったりする。学校の保健室という場所柄か、不思議と違和感を感じさせないいつもの空間。窓の外では秋の色づく木々をよそに、数多くの生徒たちが所狭しと走り回っている。今年もまた、文化祭の季節がやってきていた。その甘く浮ついた雰囲気を感じながらも、決して自らは踏み入れることのない、一線を自分で確立していることへの自意識が、目線を窓から離してしまう。言う事を聞いてくれないこの心臓と、苦いという苦痛以外に何も得ることすらないと思ってしまうクスリ達が、現実へと引き戻していた。入院まであと1ヶ月。それは、皮肉にも文化祭までも1ヶ月ということを指していた。

「君のクラスは?」

 「先生」が目線を机に落としたまま問い掛ける。白衣に眼鏡、そしてあくまで邪魔にならないようにという理由から後ろで束ねられた髪が、言うまでもなくこの空間の主であることを示している。

「さあ?」

 袋を傾け、コップの水を片手にしていた夏生は、その動作を一瞬止め、何の表情も表に出さずに言う。

「自分とこのクラスの催しくらいは覚えとこーぜ」

 ようやく顔を夏生に向け、片肘を机上に立てたまま苦笑を向ける。夏生は器用に粉末を口に流し込みながら、

「オレ、2年保健室組だもん」

 と天井に向かって呟いた。その直後、独特の強烈な苦味が夏生を襲う。何度経験してもなれないこの苦痛が、一番最後に残ってしまうのが悪い癖だった。椅子から転げ落ち、苦味にのたまわるその姿は、知らない人が見ると目を剥いてしまう情景なのだが、さすがに先生は慣れたものである。

「いつも思うんだけど、そんなに苦いの?」

「ぐ・・・せ、先生なにか・・・甘い物・・・甘い・・・」

 まるで断末魔である。詳しい病状を先生は聞かされてはいなかったが、このクスリは本当に病状を改善させているのか微妙に思っていた。と、その時、保健室の扉を開く存在があった。

「ハイ、これ」

 何も考えずに夏生は差し出されたカップケーキを受け取る。

「あ、さんきゅ・・・」

 見上げた瞬間、夏生を襲っていた苦味も苦痛も、どこかに吹き飛んでいくようだった。扉に立つその少女。小さく整った顔立ちに、ややソバージュの効いた長い髪。白く美的に輝く肌などまるでどこかの人形を髣髴とさせる。だが、何よりも驚いたのはその出で立ちである。ヒラヒラと舞うエプロンから調理実習である事は想像できるのだが、その襟の部分が赤黒く汚れている。予想が正しければ、それは血の汚れである。

「先生〜、調理実習の片付け中にシンクで頭ぶつけちゃった」

 少女は事も無げに歩みを進める。人形のような少女に流血というものが夏生を唖然とさせる。

「はぁ〜?佐山さんあんたね、もうちょっと自分の顔や体をいたわりなよ」

 先生は取り急ぎガーゼで流血の元である額の端を覆う。佐山という少女は「ハァ」と気のない返事を漏らしたまま、成すがままにされている。まさに流血のフランス人形だ、とその様子を眺めていた夏生と、その佐山との目が合った。

「あ、ねぇそれ。食べたら感想おしえてくれる?」

 佐山は片手に大きな袋を携えながら、夏生と向き合った。一瞬何のことだか解らなかった夏生だが、自分の手にした物を思い出しその意図を図った。このカップケーキはその袋の中のもののひとつだったらしい。

「何?佐山さん、まだリサーチやってんの?」

「一応!」

 先生はこれまでの経緯を知っているらしいが、夏生にとっては何のことだか解らない。

「何?保健室の住人にも何の事か教えておくれ」

「彼女ね、ケーキ屋さんになりたいのよ」

 あまり表情を崩さない佐山は至って真面目な表情で先生と向き合ったいた体勢を再び夏生に向ける。

「・・・なれるんじゃないの?そのカッコしてたら別におかしくないよ?」

「売り子じゃなくて作る方になるのよ!」

 初めて佐山が大きく表情を崩す。それも猛然と夏生に襲い掛かるような勢いで突っかかる。

「何をそんなムキに・・・」

「あなた何も知らないのね。まあいいわ。さっさと感想ちょうだい」

 その、風体からは理解に苦しむ横暴な物言いに多少苛立ちを感じた夏生だが、黙ってそのカップケーキを胃に押し込む。口の中で違和感を感じたが、それはあえて言わなかった。数秒で平らげると口元を袖で拭い、ややムッとした表情で口を開いた。

「じゃあ正直に言ってやるよ。粉っぽいし生っぽい!人に食わすレベルじゃねーよ。はっきり言って、おいしくない」

 佐山の表情が一瞬で止まる。そのまま佇んでいれば本当にフランス人形のようだった。が、明らかにショックを受けている。時間がその周りだけ活動を諦めたかのような錯覚。窓の外では変わらない喧騒。その調和しない二つの空間を、秋という季節が包んでいた。

−2−

 口元を袖で拭いながら夏生はそのまま指先を順番に口の中へ滑らせる。呆然とあらぬ方向を向いている佐山は肌そのままにまるで無機質な、そう、機械のようだった。その様子を横目で見やり、先生は苦そうな笑いを浮かべていた。

「美女にも容赦ないのね。つーか、ケーキ好きなの?」

「入院ばっかりしててケーキだけは見舞いとして山ほどもらったしね。そういう意味では結構詳しいかも」

 そう答えながら佐山の元へと歩み寄り、俯き加減の彼女に、

「あ、感想キツかったあ?」

 と悪びれた様子を全く見せない、言ってしまえば嫌味のそれで夏生は彼女の表情を覗き込んだ。するとそれまでピクリともしなかった佐山は両の手で夏生の右腕を捕らえ、若干の間を置いた後、口を開いた。

「「D組の幽霊夏生くん」、クラスメイトの顔も思い出せない薄情なあなたに・・・」

 威圧のこもった真摯な表情で佐山が夏生に言葉を投げかけ、一息置いた直後、こう結んだ。

「文化祭までのモニターをお任せします!」

 話はこうだ。佐山のクラスでもあり夏生のクラスであるD組は、文化祭でケーキ屋の出店に決定した。そしてD組の特色、つまり、他の組みでは出来ない「売り」の一つに、「学園のフランス人形佐山千秋」の売り子というものがあった。しかし問題は佐山のその売り子の格好で、どうにもそれは普段世間では見ることのないような、その存在が場の空気すら一変させてしまう服装、つまり、

「メ、メイド服なのよー!」

 佐山がクラスメイトに披露されたというその実物を思い出したのだろう、顔を真っ赤に染めて怒号を上げた。それをいつの間に潜り込んだのかベッドで寝転んだまま、呆れたように夏生が言った。

「そーゆうの嫌いなの?今だって似たようなの着てんのに」

「イヤよ、恥ずかしい!」

 確かに佐山は調理実習だったことからエプロンを身につけたままこの保健室にいる。それも風が吹けばそのエプロンだけが静かに飛んでいきそうなほどに、少女趣味なレース仕様だった。次第に落ち着いた佐山が思い出したように言葉を続ける。

「でも交換条件を出したの。「衣装着る代わりに6種類出すケーキのうち、一つでいいから私に任せて」って」

 その一本だけでも絆創膏を二枚装備している痛々しい人差し指を突き立てながら、過去を反芻し、言葉を選んでいる。夏生にはその状況がありありと、手に取るように浮かんでくる。

「悩まれただろう」

 夏生は逆に言葉を選ぶこともせず、自分の思ったことをそのままに口に出す。

「・・・ええ」

「だってまずかったもん」

 またしても場の空気が一瞬だけ膠着する。先生は机に目を落とし、知らぬ存ぜずを決め込んでいるが、そのペン先が微動だにしていないことには夏生も気付いていた。夏生のこの性格を理解したのか先ほどのようにさして時間がかかることも無く、佐山が言葉を捻り出す。

「でも条件のませてやった。いい機会だし負けられない。残り一ヶ月で味オンチを克服して、みんなの口から本気の「おいしい」を言わせてやる!」

 佐山の目が決意を感じさせるというよりも、暴走する、狂気を帯びた目になり、さすがの夏生も血の気が引いていく。だが、佐山のそのセリフから一つだけ違和感を覚えるものがあった。

「なんだその「本気の」ってのは」

 いや、夏生自身思わず口に出してしまったが、それほど意図の図れない意味ではない。だからこそ、若干の罪悪感が夏生を包み込んだ。もちろんすでに覆すことなど出来ない。保健室が学校での居場所となっており、同じ学年の人間達とは明らかにコミュニケーションが不足しがちな夏生の、これもまた悪い癖の一つだった。良い意味で表裏の無い、悪い意味で包み隠せない言動。だが、それを理解している人間も悲しいことに夏生自身くらいしかいないことも事実だった。

「・・・みんな」

 それまでの勢いをまるで感じさせない、無機質なそれまでの佐山に戻ったかのように、しかし目線の端だけを夏生に向け、薄く言葉を紡ぎ始めた。

「私のつくったもの一口食べてやめるくせに、「おいしい」って笑って言うんだもの・・・」

 外見から想像も出来ない、喜怒哀楽の激しいらしい佐山が、それまでの経緯を思い返すように言葉を選んでいく。そしてそのまま、モニターの件を確認すると佐山は保健室を後にした。残された夏生は頭から布団を被り、眠るわけでもなくただ闇の中に身を沈め、心もまた同じくしていた。窓の外の喧騒も、時折吹く強い風の音も、そしてすぐそばでペンを走らせる先生のことすらも、全てを闇の中へと沈めていった。

−3−

 学校という空間に、何か感慨を抱くという事が無かった。夏生の脳裏に「D組の幽霊」というセリフが過ぎる。確かに佐山はそう言った。在籍は二年D組。だが実際は「保健室組」であった。

「ま、ケーキ食うだけでクラスの出し物に参加したっつー名目が立つなら、ラクな話ではあるよな」

 吐息に混ざってそんな言葉が口に出る。

「ま、しかし、考えてみればあれだけの美人の手作りじゃ、どんだけまずくてもプラス50点だな」

 そしてそれを彼女はどういう表情で受け止めていたのだろうか。決して自らに本音を語られない悲しさは、想像するに難くない。佐山はケーキ屋になることは夢だといった。夢。この言葉に秘められた思いは、夏生にとって常用するクスリと同じような苦味しか思い返せない。夏生は、自らに夢を課した経験が無い。むしろ自分の未来というものを意識的に避けてきたとも言えた。しかしそれを悲観的に捕らえた事もない。いや、現実として自分の未来や、それが成す夢というものを想像する事も出来ないのだ。

「シナモン多過ぎ。リンゴ甘過ぎ。中が柔らか過ぎると思ったら周りの生地が固過ぎる」

 翌日。早速とばかりに手製アップルパイを持参した佐山に、夏生はもちろん容赦なく現実の言葉を投げかけた。「過度」を示す言葉が4つも出てくる通り、一体行程のどこを誤ればアップルパイとは思えないアップルパイが出来上がるのか、夏生には不思議で仕方なかった。そしてそれを佐山が目に見えて落胆しているのにも理解に苦しんでいた。料理を志す者にとって自らの味覚は絶対条件である。その資質に彼女は欠けている。いや、もはやそれ以前の問題かもしれなかった。それくらい、彼女の作り出すケーキは、一口でその全てを理解できるものであった。

「やめる?」

 思わず夏生の口から本音が漏れる。この娘は、言われなれていない。その外見から、佐山は現実の本音を受け止めた経験が希薄なはずだった。そんな佐山に容赦なく降り注ぐ夏生の言葉は、酷といえばその通りであった。だが。

「やめない。明日の私のコヤシになるのよ」

 涙目になりながらも力強く佐山はメモにペンを走らせる。思わず夏生の口の端が、微妙にだが上がる。この強さが彼女という人間の素なのであり、魅力だという事に疑問を抱く事はなかった。心地よさが夏生を通り過ぎる。秋の風に似たそれが、夏生の髪を揺らした気さえした。

「にしても、だ。昨日といい、ずいぶんとラブリーなエプロンだよな。そんなの着るのに、何でメイド服はイヤなの?」

 夏生の言葉通り、佐山が身につけているエプロンはふんだんにフリルをあしらった、まさに少女趣味を地でいく物だった。そんな夏生の言葉に、半分呆れた表情で、聞こえないような溜息と共に佐山は吐き捨てた。

「エプロンは汚すためのものでしょ。どんな形だろうが使えるなら何でもいいわよ」

 この娘は無頓着なのだ。外的な美に捕らわれない。その原因が自身がすでに持つ風体にあったとしても、逆にそうでなくても、彼女はおそらく同じ言葉を吐いただろう。実用性こそに価値を見出しているわけではない。ただ、過度に美に突出した、それを意図した物に価値を見出せない性格なのだ。女性で、しかもこの年齢でそういった価値観を持てるのは、それこそ強さといっていいのかもしれない。

「でもさ、メイド服も使えるんじゃないの?」

 そんな夏生の言葉に、二の句を告げさせない速度で佐山は言った。

「だってアレ、「汚すな」って言うんだもん。使えないわ。それじゃあただの衣装じゃない」

「へぇ・・・」

 たしかに、クラスが用意したメイド服は、機能としてではなく美として、佐山に身につけられるだろう。その場合、汚すなど持っての外である。ただ、やはり実用として機能しないのであれば、佐山が求める「エプロン」ではなく、「衣装」となる。そしてそれをクラスメイトは求めている。佐山の苦悩と、夏生の苦痛のすべての原因は、そこにあった。

「あ、5限はじまる。じゃ」

 右の手首を見やり、佐山がそう言うと同時に、校内に次の授業の始まりを示す鐘の音が響き渡った。そして佐山が、自信の持ってきたアップルパイの入った箱を、持ち帰ろうとするのを、夏生は制止した。

「あ、それ。食うから残しといて」

 その言葉を耳にしたとき、この日初めて佐山が笑顔を見せた。

「えっ?食べたいの?」

「後でクスリのむからさ・・・」

 佐山の笑顔が引きつる。

「薬のにがさをまぎらわすくらいの役に立たんと、ケーキもかわいそーでしょ?」

 まさに追い討ち。逆に満面の笑みで無惨な言葉を投げつける夏生。美人を見るとついイジメたくなるのは、なにも夏生だけではないのだが、それを佐山が知っているかどうかは別の問題である。「おぼえてらっしゃ〜い!」というお決まりの捨て台詞を残し、佐山は逃げるように保健室を後にした。後に残るのは鐘の音の余韻と、静謐な保健室。直前の騒々しさがあるため、この保健室が普段よりも寂しいものに感じられる。それを紛らわせるため、夏生は微かな溜息を吐いた。夏生の空気は保健室に霧散し、何の役にも立たなかった。手を伸ばし、クスリを手に取る。その時、夏生は意外な感情に気付く。今まですでに慣れきったこのクスリの群れが、嫌悪の対象となっていたのだ。もう一度夏生が溜息を吐く。それは先ほどの、自身を紛らわせるためのものではない、自嘲に満ちたものだった。

−4−

 夏生の苦痛、つまり佐山の挑戦は続く。次の日はもちろん、下手をすれば放課後を利用して一日に二回も試食に付き合わされることもあった。持ってくる題材も多岐に渡り、プリン・ア・ラ・モード、ストロベリートルテ、シフォンケーキからオールドファッションまで、およそケーキ屋に出すものではないものまで、夏生は口にした。もちろん戦果は無いに等しい。これはもう才能といってもいいかもしれない。そんな毎日が繰り返されていた。

「先生〜〜〜」

 保健室にいつもの声が届く。だが、この日はその目的が夏生ではなく、本来のこの部屋の主である者に向けられたものだった。

「包丁で首切っちゃった〜」

 思わず目を剥いて入り口を向く夏生。そこには首の左側、頚動脈の付近から、若干ではあるが流血する佐山の姿。止血に当てているタオルはもう半分以上が赤く染まっていた。尋常ではない事態である。それでも佐山は普段と変わらない態度で手当てを求めている。

「ど、ど、ど、どうしてそんなところを切ったり出来るの!?」

 先生の疑問は最もである。だが、夏生は不思議な違和感を感じていた。ほとんど真っ白な肌の一部が醜い赤黒に染まっている。もちろん想像した事も無かったが、現実として目にすると、感じた印象は間違いなく美であった。

「あ、アレだろお前。ケーキがまずいとかそういった以前に、こういう職業に就いて欲しくない人がいっぱいいると思うぞ・・・」

 率直な感想だった。この娘は味覚もそうだが、料理に必要なものに対して致命的な欠陥がいくつもある。その全てを克服していくにはもう手遅れではないかと夏生は思い始めていた。幸いバンソウコウのみの手当てで済んだものの、これでは命がいくつあっても足りないのではないかと、夏生が肝を冷やしていた。とその時、負傷を意に介していない佐山が恒例となった包みを解く。

「あ、オレこのケーキ好き」

 思わず口から漏れる。少し形のいびつな、黒糖色そのままの、それはガトーショコラだった。

「えっ」

 佐山も意外だったのか、夏生と向き合う。期待に満ちた彼女に気付いた夏生がすかさず言った。

「嬉しいけど、マズいんだろうな・・・」

 落胆の表情に変わる佐山を尻目に、夏生が口をつける。やや置いた後、

「甘すぎる」

 押し付けるような言葉の重石が佐山を潰そうとする。しかし、夏生のセリフには続きがあった。

「・・・けど」

 佐山が瞬時に顔を上げる。まさに想像もしていなかった夏生の評価に、心音が高鳴る。

「それはあくまでオレの好みで、女の子の口にはちょうどいいかもしれない」

「え?それってつまり・・・」

 一息置いて、夏生が佐山の望む句を告げた。

「いいんじゃない?客に食わしても」

 言葉が、句の一つ一つが佐山の耳を通り、脳へと伝わる。甘美な響きとなって、それは佐山の世界を拓いた。他の誰でもない、真摯な意見をもたらす夏生の言葉である。大袈裟ではなく、それは彼女の未知の領域を示した。目の前が白く広がる。単純に嬉しいという思いが、自分の中で処理できないほどに膨張し、侵して行く。それを表す笑みが、佐山を彩った。

「・・・」

 その笑みを目撃した瞬間、夏生は目を剥いた。目よりも先に、心臓がそれを捕らえていた。普段の動悸とは全く異なる異常音が、それも膨大な量で夏生を蝕んでいく。自分でも顔が紅潮していくのが手に取るようにわかる。それを隠す意味も兼ねて、慌てて夏生は口を開いた。

「だ、だからって精進を怠ったらダメだ」

「はぁい」

 そんな夏生をよそに、佐山はまさにご機嫌でそう答えた。そして、「また明日」といつものように保健室を後にする。彼女の去った扉の向こうを眺めると、もうそこは宵闇に変わりそうな空が、全てを支配しつつあった。

「佐山さんてさ」

 それまであえて二人を静観していた先生が、その暮れゆく景色を目に移しつつ、呟くように言った。

「本っ当に、怖いくらいに無防備なところ、あんのよね」

 自らを見透かされた夏生が一瞬身体を震わせ、先生を見やる。先生は夏生とは向き合わずに、言葉を続けた。

「にしても、最近日が暮れるの早くなったなぁ。こりゃ一人歩きの女の子を連れ去るにはもってこいの暗さだわ」

 何かを考える必要があったのだろうか。頭脳が判断を下すまでも無く、夏生は自らの鞄を手に取っていた。そしてその意図を気付かれぬよう、無言で保健室を後にする。扉が閉まった後の保健室では先生が一人、堪え切れずに笑みをこぼしていた。

「あの笑顔は、反則だわ」

−5−

 駆ける事は出来ない。両足が宙に浮いた状態から着地すると、それがたとえ僅かなものであったとしても、尋常でない負担を強いる。それでもいつものように、ただゆっくりと歩むわけにもいかない。それは、自分が許さなかった。結果、早歩きの要領で校門へと続く道を駆ける。忙しく駆け回る生徒達。それぞれが自らの役目をもち、その責任を果たすべく、駆けている。身体は正面を向きながら、夏生は目で彼らを追ってしまっていた。校内の喧騒がひどく虚ろなものに聞こえる。自分の周りに境界線があり、それが常に付きまとう。それを苦痛に感じなくなった、いや、感じないようになれたのはそう遠い日のことではない。その痛恨に似た思いが、夏生の脳裏に蘇る。そんな時、前方に佐山の姿が見えた。

「あ、佐・・・」

 悔恨の思いが空に弾けると同時に、全身を突き抜けるような痛みが夏生を襲う。頭の先から足元に一瞬で駆け抜けたその痛みを受け、思わず手を胸に当てる。視界が真っ白に広がった直後、徐々に黒く、そして狭まる。最近は現われなかった、夏生の境界線。そこまでだった。

「っ、・・・てて・・・」

「おいおい、夏生、どうした」

 後ろから支えるように夏生の同級生が手を貸した。

「おう、トシちゃん。いいところに」

「大丈夫かよ」

 友人の声が遠い。同時に佐山の姿も遠のいていく。手を伸ばしたくても、胸に当てられた手がそれを許さない。

「この距離で・・・。無事を祈るだけってのも、情けない・・・話だよな」

「ん?何か言ったか?」

 力なく首を振る夏生。夕闇に溶けていく佐山がいる。強い風に髪を乱され、一時だけ手で髪を梳いた。落ち行く銀杏の葉に彩られながら、幻想的ともいえる佐山の姿を目にした夏生は、その後、保健室へ逆戻りする事となった。同級生の背に負ぶさり、うつろいゆく意識の中で、どうしても佐山のあの笑顔が離れてくれない。あの顔が、一瞬だが、心臓の故障を忘れさせた。夏樹の心に、苦しくも心地良い感情が広がっていた。

「お、珍しい。夏生じゃん。昨日は大丈夫だったか?」

「ああ、サンキュね。トシちゃん」

 次の日、夏生は自らが籍を置く二年D組みを覗き込んだ。夏生にとっての居場所は常に保健室であり、自らのクラスとはいえ滅多に姿をあらわさない、「D組の幽霊」。いつもとは違う空気が、夏生にとっては新鮮だった。

「佐山って来てる?」

 一瞬意外そうな顔を見せたが、思い出したという表情で夏生に言った。

「つーか、自分の席で待ってろよ」

「あ、そか。オレの席ってどこ?」

「・・・そこ」

 彼が指差した先には、堆く、そして色取り取りの荷物で占有された夏生の机があった。夏生を考えて常に最後尾の窓際という、空席の気にならない位置に定められた定位置に夏生が陣取る。主に体操服用の鞄で占められているその山に顔を埋める。そのまま顔ごと目線を外観に向けると、意外な姿を目に出来た。佐山千秋の姿である。ただ、彼女は一人ではなかった。

「おっと、色男からのアプローチか?」

 佐山と面向かっている男がいた。だが、二人の様子は、明らかに一瞥しただけでそれと解るものだった。

「あ〜あ、「ごめんなさい」だ」

 深く頭を垂れた佐山の姿が目に映る。あの容姿である。佐山にそういった噂がないはずはなかった。ただ、この佐山のあしらい方が様になっていた。明らかに慣れたものであることすら、想像に難くなかった。

「あっ、色男諦めわりぃの」

 面を上げた佐山がそのまま立ち去ろうとするところを、男は彼女の手を引き、食い止めた。一瞬鋭い眼光を投げつけた佐山だが、男は諦めるそぶりも見せず、手を離そうとはしない。振り解こうにもさすがに力では敵わないらしい。

「さて、どうでる佐山」

 一連の動向を、窓ガラスで隔てられた位置から眺めていた夏生は、直後に意外な顛末を目撃した。

「な・・・殴ったー!?」

 引きとめられた手を一瞬強く引き、瞬時に逆の手から平手が飛んでいた。空砲が木霊すような効果音が、夏生の耳にも届きそうだった。強い。思わず塞ぎきれなかった笑い声を漏らしつつ、夏生は佐山の持つその強さを目の当たりにしていたのだ。同時に、空洞の、中身を伴わない安堵が夏生に届く。それは哀しく、そして、浅はかなものであったかもしれない。だから、というわけではないが、夏生にとっては不要な感情だった。佐山は自分で強さを抱き、それを認識し、理解している。夏生に気付いた佐山が歩み寄り、夏生に、引き止められていた手を差し出し、困惑する。

「こっちの手、ケガして痛いって言ってるのに離さないのよ、ひどい男。思わず殴っちゃった」

 事も無げに告げる佐山に夏生は、「バカだなぁ」といつものように笑い返している。彼女の強さを、夏生は知った。いや、知る事が出来た。自分のような貧弱な、声を出せば届くような距離でも手を差し出せなかった弱い自分が、佐山を心配する道理は無い。そして夏生は佐山に気取られないように、自己に覚悟を求めるように、呟いた。その言葉が空に向かって羽ばたいていった。

「あと少しだし・・・な」

−6−

 昼下がり。二人はいた。いつもの保健室で、いつものように、夏生は佐山の努力の結晶を口にしていた。佐山も学習能力が無いわけではないらしく、日を追うごとに進歩はしているようだった。ただ、進歩の結果が人前に商品として出せるかどうかは別の問題である。

「・・・きゅ、休学?」

「うん」

 時間は確実に流れていた。それは佐山が送り出す成果として現われてもいたので間違いない。だが、それは佐山本人にとってはあまりにも急な、予期していない流れの速さであった。そう、これは文化祭までの、期間限定のモニターのはずだった。だがそれをいつしか夏生も、そして佐山も、穏やかな時の流れに気がつかないように、その終わりの時を見失っていたのかもしれない。もしくは・・・。

「だから文化祭には出れないんだわ。その前日に入院だし」

 夏生が笑って言う。逆に目に見えての落胆を見せる佐山は、聞き取れるか聞き取れないかの微妙な小声で、呟くように、吐き出すように言った。

「そんな・・・。困る」

 予想しなかったしおらしい言葉に、夏生はたじろぐが、それでも「オレがいなくなったらさみしいのか?」と笑う強がりを見せた。

「私の計画はどうなるのよ」

「え?」

 思わず聴き返す夏生。そして佐山の独白が保健室に響き渡る。

「高校卒業まで夏生くんを拘束してスキルアップを図る計画が・・・。あたしの「ケーキ屋天下取りプラン」が台無しじゃない!」

 水を打ったように静まり返る空間。今は二人しかいない。だからこそ余計にそう感じたのかもしれない。開いた口が塞がらない夏生と、至って大真面目の佐山。驚愕の独白を終えてもまだ、「あ〜」だとか「ウソ〜」という声を漏らしている。

「お前・・・目標だけはデカいんだな」

 呆れたように夏生が言う。これを冗談で言っていないことが解るだけに、夏生も苦笑するしかなかった。強さとは何だろうか。自分が失ったものなのだろうか。本当に?夏生の脳裏の、自らが意識出来ない位置で蠢いていた。佐山の目は、常に一つの理想に向かっている。おそらく、彼女の強さの本質はそれなのだ。だが、夏生はそれを破棄していた。せざるを得ない理由が、存在したからに他ならない。だがそれを弱さと感じる事は無かったし、弱さと位置付けないよう、それこそ意識してきた。自分が変わる感覚。明日という意識から目を背け続けてきた夏生が、生まれて始めて味わう感覚に浸り始めていた。苦笑の影には、夏生のそういった背景が見え隠れしていた。

「あ、じゃあ」

 一通り苦言を漏らした佐山が振り返り、夏生と向き合う。細かく刻まれたチェック柄のエプロンが靡き、夏生は僅かに目を細めた。

「復学はいつ?」

 やや眉を上げ、片肘をついていた夏生は笑みを伴い、口を開いた。

「未定、と言われた」

 自分の胸を指差す夏生。弱さだと思っていたものが強さだということに気付く時。自分以外の人間が持っているものを、自分勝手に強さなのだと思い込み、それを持たない自分を弱者だと、そしてその思い意識的に避けてきた夏生。自分の胸を指差したときに、それら馬鹿げた感傷は、すべてどこかへ吹き飛んでいた。しかし佐山は気がつかない。静寂が保健室を支配する。どう言葉を繋いでいいかが解らないでいる。その事にすら気付いていた夏生は、意に介さない様子で言葉を続けた。

「でもお前、そろそろ作るもの決めとかないとマズいぞ。パイは成功した試しが無いだろ。スポンジ物も率が良くないしなぁ・・・」

 空気の重さが、湿気を持ったように沈み込んでくる。夏生は、この空気を知っていた。そして、一番嫌いなものの一つでもあった。根拠の無い罪悪感と、晴らしようの無い苛立ち。自分が原因で無いだけに、どうすることもできない。ただそれを佐山が知らないでいるだけなのだ。

「あのさ」

 佐山の表情を見ていられなかった夏生が、微かな溜息とともに立ち上がる。佐山の胸にどういう思いが渦巻いているのか、これまでの経験と、彼女の性格から、それは夏生にとって簡単な問いだった。そして、夏生の強さを見せ付けた瞬間から、佐山は一度たりとて夏生と向き合っていない。だからこそ容易な問いかけであり、だからこそ、焼け付くような苛立ちが、夏生を取り巻いていた。

「同情は、本人のいないところでしてくれな」

 ビクリと佐山の肩が震えるのが、彼女に背を向けて保健室を後にしようとする夏生にも、手にとるように解った。だからこそ、次に投げかけられる言葉も、想像するのはそれほど難しくない。

「ご、ごめ・・・」

「謝られんのも困る」

 おそらく佐山は夏生を向いたのだろう。沈痛な空気が少しだが揺れ動いた。だが重みは変わらない。扉が大仰な音を立てて閉じられる。夏生の行き場を失った、いや、そもそも生まれても行き着くところなど存在しない不快感がそうさせた。扉に手をかける直前、振り向けばどうなっただろう。佐山は、どういう表情で夏生を見つめただろう。だが、どれほど考えを巡らせても答えは生まれては来なかった。あと少しなのだ。学園祭が過ぎれば、もうこの不快感とも別れる事が出来る。だから、あと少しだから、ただ波風を立てずに過ごしていきたかっただけなのに。いつもより早い帰路に立った夏生は、たおやかな風と新鮮な空気とを味わいながら、保健室に取り残してきた佐山の影を忘れる事が出来ないでいた。

 そして、学園祭を前日に、夏生の休学の日を迎える。あの日から、佐山の姿をみる事は、終ぞとしてなかった。

−7−

 教室の机に付した夏生が何気なく窓の外を見やると、屋上から垂れ下がる横断幕に目が行った。28回目を迎えるという文化祭も、夏生になにかの感情をもたらす事などなかった。しかしそれは前回の話で、今回はやや異なった心象をもたらしていた。これまで包まれていた喧騒が嘘のように、不思議な静けさが教室を、そして学校を支配していた。前日をしてすでに大半の準備を終えているのだろう。生徒達にも安堵と、それがもたらす期待に満ちている。だが、夏生に心芽生えた苛立ちに似た棘は、そんな中でも確実に存在していた。あの日から佐山は、ついに姿を見せなくなっていた。その原因が明確である以上、夏生に出来ることなど何もなかったのも事実ではある。だが、いや、だからこそ、有限の時間を食いつぶしていくこの感覚は、明らかに苛立ちといってよかった。横断幕が風に揺られる。はためくそれは自分の心境に似ていると、柄にもなく夏生は苦笑した。そんな時に、見知った姿が視界の端に現われた事に気づく。ややソバージュがかった長い髪に映える肌。黙っていれば美少女を地で行く少女も、よく見れば10ある両の指の、その半分以上が何らかの手当てがされていた。最後に彼女の姿を見たときにはなかったものである。夏生は目を細め、彼女が独り、自らの目標を見失っていなかったことに微かな息を漏らした。もし、もしに、自意識過剰だといわれようとも、件の一件で佐山がその指を動かす事を辞めていたら。黒く渦巻いた感情を想像しかけたときに、事態は急変した。

「・・・あれ?」

 夏生は目を丸くし、事の事態を確認した。佐山が、少なくとも夏生の見知らぬ女生徒に頬を叩かれたのである。その直後に、もう一度転機があった。逆に、何の躊躇もなく佐山が叩き返したのである。

「こ、今度は女を殴ってる・・・おいおい」

 少し前にも同じような事があった気がする。記憶の紐を辿り、思いつく。あの時は確か、迫られた佐山が男を殴った時だ。あの時と違うのは相手が女性である点と、そして会話の一字一句が聞こえる点だった。

「痛ーい!何するのよ」

「それはこっちのセリフでしょ。いきなり連れ出されて殴られて。そっちが先に手を出したんでしょうが」

 佐山が、殴った事を気にする風もなく、力なく座り込んだ女生徒を見下ろしている。頬は痛々しく赤く染め上がり、いかにも相手が殴りなれていない、力の加減を知らない事を示唆していた。だが佐山はその頬を隠すような事もしない。それが彼女だという事に、夏生は苦笑を漏らす。だが気丈にも女生徒はそんな佐山に向かって、憎憎しげに言葉を投げつける。

「あんたは殴られるだけのことをしたじゃない!」

 一瞬ポカンとした表情になる佐山。目線を泳がせ、明らかに脳裏の記憶を探っている。思い当たる節が無いのか、はたまた多すぎて選択できないでいるのか。そんな様子を見て、戦慄に身体を奮わせた女生徒はさらに続けた。

「他人の男に色目を使った挙句に殴って振るってどういうことよ!?」

 真っ先に思い当たったのは夏生だった。少し前、強引に佐山に詰め寄り、「ごめんなさい」と頭を垂れられ、しかし諦めきれないのか負傷の痕が残る彼女の手を握り、逆鱗に触れ殴られた色男。その事を指しているらしい。気がつくと夏生の隣にトシちゃんが陣取っていた。見学を決め込んでいるらしい。いや、ふと周りを見るとクラスメイトの何人かがこの光景を注視していた。そんな時に、ようやく思い当たったのか佐山が、今度は怒りに震える番だった。眉は吊り上り、整った目眉からは殺気が漂う。誰にも止める事の出来ない状況だった。

「・・・こっちはケーキ屋目指して脇目も触れずに頑張ってるのに」

 そのあまりにも温度の感じられない言葉に女生徒の表情が引きつる。言葉が佐山の殺気を運び、女生徒がそれに気付くか気付かないかの内に、佐山は畳み掛けた。

「あたしはそのテの言い掛かりが大嫌いなの!色目って何。この目のどこに色がついてる。あんたもその男も完全な空回りよ。今日、今の自分がどれだけ滑稽だったか、夜布団の中ででも考える事ね!」

 温度などとうに無くなっていたのかもしれない。女生徒は反論はもちろん、驚愕のあまり、佐山から目を背ける事も出来ずにただ佇んでいた。顔は青ざめ、身体は小刻みに震えているようだった。それほどに、佐山の迫力は周りの景色を消去し、対象との世界を作り上げる。叩きつけるように浴びせられる言葉の数々は、おそらく、佐山に悪意があるわけではなくても、この女生徒のように完膚なきまでに叩き潰したのだろう。

「な、何よ。ケーキケーキって純粋ぶって」

 ペタンと座り込んだままの女生徒が、それでも気力と精神力を振り絞ったように、力なく言葉を紡ぐ。

「周りの人間の気持ちも解んないやつが、美味しいものなんて作れるわけないじゃない!」

 佐山の目が、一瞬だけだが微妙に広がる。それを見た女生徒は逃げるように走り去っていった。しばらくその場に立ち尽くしていた佐山も、何事も無かったかのようにその場を後にする。クラスメイトは口々に「佐山の勝ちか」、「相変わらずかっちょいいよな」、「あの女もマヌケだよな」と戦況を分析していた。た一人、夏生だけが、佐山の心境を慮っていたのかもしれない。あの瞬間、佐山は肩を震わせ、それまでの自己を省みているようだった。その結果、彼女が思い当たることを知るのは、夏生にとって難しくない。女生徒は捨てゼリフのつもりで何気に口にしたあの言葉も、今の佐山が一番聞きたくない、気付きたくない言葉だったに違いない。去り行く佐山の背中が、そう告げていた。あんなに佐山の背中は小さかったか。夏生は思い出すのと同時に席を立ち、教室を後にした。目指す場所は、決められているわけではないが、決まっている。その場所が、居場所なのだから。いつも通りの決められた道を進む。右に折れ、しばらく進むと保健室が見える。扉に手をかけ、乾いた音とともにそこへと開いた。先生が、何も言わずにただ、指を指す。その指された方向に、不自然な位置にある柱。そこに備え付けられた長椅子に、彼女はいた。

「おい、聞いてたぞ」

 聞こえてはいるのだろう。腫れた頬を濡れたタオルで押し当て、そのまま両の手で顔を隠すようにして、俯いている彼女。その肩がピクリと震えた。だが、顔を上げる事は無い。ただ、全てを、居場所ですら拒否するような風体が、保健室全体を取り囲んでいた。先生がペンを走らせる、その定期的な効果音がBGMとなり不思議と心地良さを演出している。ただ、この一点を除いて。

「お前も大変だなあ」

 そう言って自らも長椅子に、佐山の隣に腰を落ち着ける。ふと目線を彼女から外すと、まるでその存在があやふやになってしまう。慌てて元に戻すと、やはりその姿は確認できる。儚くもあり、まるで幻のような存在。思わず彼女の頭に手を置こうとする。そうでもしないと、本当に幻となってしまう危機感すら、覚えてしまったからだ。だが、あと数cmでその手を止める。あの騒動の際に、佐山が言い放った一つの言葉。

「空回り―――」

 その単語が脳裏を、そして思考全体を侵食する。そうだ。誰しもが、脇目も振らずに生きていて、それは、もしかしたら空回っているのかもしれない。佐山は、自分でそう言った。そう、言ったのだ。夏生は、置こうとした手を持ち上げ、ある程度の力をこめて縦に突き刺してやった。

「なっ」

 想像しなかった衝撃に、たまらず佐山が夏生に向き合う。食って掛からんとするような勢いだったが、夏生の表情を目にするとすぐに収まった。

「泣いてんじゃねえよ。明日のケーキどうすんだ」

 佐山は、顔全体を腫れた色に染めて、懸命に涙を堪えながら、声を漏らした。

「だ、だっ・・・」

 佐山の言葉を完全に出力させる前に、夏生は自分の言葉でそれを遮る。そのために、夏生はこの場所に戻ってきたのだ。

「あんな女の言う事でヘコんでるんじゃねえよ。ケーキ屋目指すんならこれからもっともっと、酷い事言われ続けんだぞ」

 佐山が神妙な面持ちで頭を伏せた。生きている以上、空回りしてようが、なんであろうが、常に現実が自分に突きつけられ、その上で生きていく事になる。その前提が存在するからこそ、空回りでも、前を見ることが、現実に向かうことが出来るのだ。夏生は自分の身体がそういった前提が特殊なものであるからこそ、その現実を誰かに突きつける強さを持つに至った。

「現実は甘いもんじゃないからな。ま、とりあえず今出来る事を片付けていけよ」

 一つの目標を置いて、それに向かい続けるのも強さである。だが、途中の障害に躓き転んだ時に、改めて自分を見つめ直す事にも、強さは必要になるし、それこそが強さに変わる。今佐山は、転んだまま立ち上がろうとしている。転んだ衝撃が、それが他の人にとって何でもないものであっても、彼女が進んできた道にとっては絶望の淵にも似たものなのだ。立ち上がる強さを、少しでも分け与えてあげたかった。

「―――以上。シメの言葉でした」

 佐山の反応も見ずに、そのまま立ち上がった夏生は先生の元へ歩み、別れの言葉を告げた。

「せんせ。今日でお別れ」

「寂しくなるなぁ。元気でやれよ」

「おお」

 夏生がそのまま足を踏み出そうとすると、後ろから何かに衣服を掴まれた。何事かと振り返ると、そこには。

「こ、これは同情じゃなくて!そ、その・・・」

 そういって左手に持っていたそれを両手で持ち直し、差し出した。

「激励!」

 バースデーのそれを思わせるケーキの淵を、色取り取りのアクセサリーで飾っている。シンプルなものではあったが、ただでさえ不器用な佐山がこれだけの大きさのものを作り上げるには、かなりの時間が必要になるだろうということは容易に想像できた。そして中央部分に大きく書かれた、佐山が夏生に向けた思い。ただ、その言葉が、彼女らしいといえばそうなのだが・・・。

「け、けんこう・・・おるがん?」

 「健康祈願」と記したつもりなのだろう。だが、チョコレートで書かれた言葉は、「祈願」ではなく「「折」願」となっていた。

「えっ!?」

 これも佐山千秋なのだ。力なく立ち尽くす彼女に、満面の笑みで

「や、ありがと」

 と最高の別れを告げた。目から僅かに染み出したこの涙は、思わず笑ってしまったこのケーキに対してのものなのか、それ以外にも理由があるのか。そんな事ももう、どうでもよくなっていた。ただ、結局明日の文化祭の事について何も触れずに別れてしまった。確かに、外観だけは上手く仕上げるのである。その外見に期待して口にすると、想像以上の落差に誰もが愕然となるだけであって。不安に思い、その「健康おるがんケーキ」を廊下の途中で口に含んでみる。

「お、美味しくない・・・」

 正直な感想だった。どうしてこういう基本的なものですら、上手く作れないのだろうか。全く甘味を感じない、それどころか甘い以外の味覚が口いっぱいに広がるスポンジケーキには、独創的という言葉は通用しない。これでは、明日の文化祭はとんでもないことになりそうだった。

「何これ。着ぐるみプロレス?野球部か。面白そうじゃん」

 校舎を後にしようと敷地内を歩いていると、耳慣れない言葉が夏生の耳に届いた。明日の催事の一つなのだろう、掲示板に一枚のポスターが貼られている。野球部の祭事物らしいそれは、ただ「着ぐるみプロレス」とあるだけで、詳しい事は何も書かれていなかった。夏生は思いを巡らせる。野球部といえばトシちゃんの部だ。そこまで思いつくと、一つの結論を出し、そのまま校舎を後にした。秋の色に染まった空が、深みを見せている。風はやや強く、それでも心地が悪いものでもなかったし、これからはそれを感じる事も自由にならない夏生にとって、感じられるもの全ては自らに封じ込めておこうと思った。長く居たはずなのにそれほど詳しくなる事もなかった巨大な校舎が、夏生を見送っていた。

−8−

 季節が織り成していく感覚を、何よりも手っ取り早く感じるには節目の行事に参加する事である。28回目を迎える文化祭も、もちろんその役目を担っているのだ。絶えることのない、雑多ながらも歓声と、その性質を持つ喧騒が、校舎を、その場すべてを内包していた。この節目を感じる者、感じずに後にする者、そしてこの場に居合わせることすらかなわない者。それぞれの思惑をも、この雰囲気と、広がる大空は内包していた。

「もお。どうしてそういうことするの?」

 困惑と憂いが半分づつの表情で、2年D組の「出し物」である佐山千秋が漏らす。公約通り、身には化石めいた、今や人々の想像の産物となった格好、つまりメイド服を召していた。もちろんこれは佐山も了承済みの事である。ただ、彼女の目的の主眼は販売数による利益ではない。後学のための真摯な意見を求め、渋々この条件を呑んだ、いや、呑ませてやったのである。クラスとして用意された6種類のケーキ、その中の1つである佐山のガトーショコラには、華々しく宣伝告知がなされていた。

「お買い上げの方抽選で、本人とのツーショット写真」

 と。

「あんな売り方したら本音の感想聞けないじゃない!」

 当初佐山はそう紛糾していたが、クラス全員の意見としてその案は通ってしまった。もちろんその結果として異例なまでの繁盛を記録し、店内に空席を見つけるのは困難なくらいにまでになっていた。その中でも1番の人気は、もちろん佐山千秋作のガトーショコラである。理由を述べるのは難しい事ではない。むしろ、それ以外の理由を見つけることの方が困難だ。言い方を変えれば、それほどに佐山の姿は魅力的な物だとも言えるのだが、それを喜ぶ彼女ではなかった。

「ヒマ潰しにアンケートでも読む?」

 もう何人目か数えるのが億劫になった頃、ようやく撮影の波が途絶え、佐山にも小休止が許された。だが、彼女がこの催し物のメインである以上、もちろん外出など許されない。周りの全てから浮いた格好のまま、佐山は空いている椅子に腰掛け、クラスメイトから結果の解りきった紙の束を受け取った。それらはほぼ全てで佐山への美辞麗句で占められ、佐山の予想を裏切ってはくれなかった。「現実は甘いもんじゃねえからな」、という夏生の言葉が脳裏に浮かぶ。それは拭おうとしても拭いきれず、その重みに潰されそうになる。不意に胸を熱い物が押し上げてきた。それは肉体的にではなく感覚的に上昇し、ついに顔を、瞳にまで迫る。必死に堪えようとする佐山ではあったが、その一端を堪え切れなかった原因は、夏生のその言葉と、彼を思い返す佐山自身にあったのだろう。強さではない、弱さでもない。それが、佐山千秋という人間なのだ。

「夏生君・・・。そうよね、本当に。今後もこんな調子がずっと続くのかしら」

 紙をめくる速度が落ちる。何枚見ても、ほとんど同じ内容が記されており、それも徐々に視界が滲み始めていたからだ。だが、たった1枚の紙に目を落とした瞬間、視界が飛んだ。自身がそれまでの自分を追い越す違和感。風景と人々のざわめきが後ろから追いかけてくる。気がついたときにはもう、立ち上がり教室を後にしていた。驚いたクラスメイトが佐山が投げ出したアンケート容姿の束を1枚1枚拾い集める。そんな中、1枚だけ、違った内容の用紙に気付いた。それには、こう記されていた。

−どのケーキが一番美味しかったですか?

・ガトーショコラ

−それはなぜですか?

・今まででいちばんマシだったから

−9−

 口の中にまだ違和感でいっぱいの食感が残る。だが、悪い気はしない。むしろなぜだか安堵の気持ちと、今まで味わった事の無い幸福感が胸を満たす。今まで痛みしか感じなかったこの胸が、初めて、優しさを実感する。胸から熱い物が込み上げ、やがて瞳を襲う。だが、それを許さない事で男としての意地を保とうとする。泥臭い物であっても、それが、男という、いや、夏生という人間だった。

「何やってんだ、俺は・・・。病院に、早く病院に戻らないといけないのに」

 夏生から吐息のように漏れた声も、誰一人に届く事はなかった。文化祭という行事がそういった性質を持っているからであろう、誰一人として夏生を振り返る事はなかったが、全力で廊下を駆け抜ける佐山はそうはいかなかった。いかな文化祭といえども、佐山のその格好では当然といえるのだが、普段ならともかく、それを意に介している場合ではない彼女にとってはもはやどうでもいいことでもあった。佐山が過ぎ去った後を振り返る人々からは、驚きと、未知の生物を目撃したような形相となる人々も多かったが、それと同じくらい、その愛くるしい外装から感嘆の声を漏らす者も、少なくはなかった。それを彼女は繰り返す。ただ1つの目的を、自らの足で駆ける事によってその実現に近づこうとする。そして、その他の要因は全て除外し、ただ1つのその光に向かい、躊躇うこと無く突き進む。彼女の強さも、そして弱さも、その結果に生まれる、いわば副産物に過ぎなかった。

 本能を、直感する。

 長い髪をたなびかせながら、それまでもいくつか見て取れた仮装のそれである熊の着ぐるみを通り過ぎる。

 本能が、呼応する。

 何かを意図したわけではない。そう思いついた時には、佐山はその熊に振り向いていた。何も言わず、佐山はその頭の部分を持ち上げる。そこに現われたのは、佐山の夢に自分の理想を重ねていた、夏生の姿であった。

「・・・何でわかんの?」

 佐山は答えない。答えを模索しているようではあったが、一瞬の間の後に出された答えは・・・。

「なんとなく」

 本能を、覚醒させる。

 想像も、予想も出来ない佐山の言葉に、今度は夏生が言葉を失う番であった。

 本能が、役目を果たす。

「うわぁ、そんな事言われちゃったら、お前」

 ゴトリ、という鈍い音と共に熊の頭部が廊下を転がる。それまでそれを支えていた夏生の両手。右手は佐山の左手を握り、右手は同じく腰に回す。そっと抱き寄せ、そのまま影を重ねた。二人の周りからであろうざわめきも、おそらく、いや、間違いなく今の二人には届いていない。そして届いたところで、何かを変えるような二人でもないのである。長い時間ではなかった。互いの感触を確かめるだけの、いわば儀式のような口付けだった。一時も瞳を閉じること無く、事実と現実を噛み締めるように佐山は受け入れた。

「あー、やっちまったー!俺も空回ってるかぁ!?」

 慌てて熊の頭部を拾い上げ、逃げるように立ち去る夏生。真っ赤に染め上がった夏生の顔を、そのまま微動だにせず見送る佐山。力なく垂れ下がった両の手が、今日という日のために、細かな傷で彩られていた。紛れもない、佐山の勲章である。

「うわぁぁぁ、見たか!」

「ドラマみたーい」

 喧騒の度合いが大きくなり、それがら一斉に佐山を包み始めて行く。だが、それに気付いているのか気付いていないのか、そのままフラフラと、まるで存在が希薄になったかのように自然と歩みを進める佐山。彼女はいつもの場所へと向かっていた。

「バカだ俺は」

 流されてしまった。それが夏生の第一印象だった。何も考えていなかった。佐山が本能の女なのなら、それは夏生にも、立派に当てはまる。だが、先の事など誰にも解らない。相変わらず、自分の身体は蝕まれているけれど。クスリも、現実も、自分にとっては苦い物ではあったけれど。自分は、この時を生きている。後悔のない生き方なんて出来やしない。だからこそ、空回りでも、夏生は佐山を抱き寄せたのだ。嘘でもいいから、願いは叶う。誰よりも、夏生にとって、その言葉を佐山に伝えて欲しかった。だから多分、夏生はこの時、純粋に幸福を感じたのだった。

−Epilogue−

 私は、世界を知ったのだろうか。あの瞬間、私は、自分の世界が拓かれていく感覚を味わった。白黒だった世界が、色付いて、ハッキリと私に迫った。知った、という表現が一番適切だろうか。初めての経験にその前後の事をよく覚えていない。呆然としてしまった私を、彼はどう思っただろうか。

「あら佐山さん。って、かっわいい〜」

 足が私を運んだ場所は、いつもの保健室だった。私は確かめたかったのかもしれない。そして、知らなければならない事がただ1つある事は、解っていた。

「どしたの?熱でもある?」

 先生は私を見てそ言った。なぜだろう。熱なんてないのに。それよりも、私は先生に聞かないといけないことがある。頭の中は真っ白なのに、それだけがじんじんと、疼くように擡げている。本能、というやつなかもしれない。

「鍋島君の入院先?調べれば解ると思うけど」

 今度は私が伝えなければ。私が私の願いを知る前に教えてくれたように、今度は私が教えてあげなければいけない。

 その言葉も想いも、今の私は、持っているのだから。

fin