夢幻の更新記


3月28日(日)

これまでの日本競馬史上で最も人気の高かったサラブレッドが2頭いる。

それがハイセイコーとオグリキャップだ。
他にもナリタブライアンやメジロマックイーン、トウカイテイオーなど名を馳せた名馬は多いが、
ハイセイコーとオグリキャップの2頭だけは図抜けた人気を誇り、おそらく今後もそうは出ないであろう桁外れの人気ぶりだった。

この2頭にはいくつか共通点があるが、
最もそれが顕著な点は、中央のエリート群に立ち向かった地方馬、というところだ。
もちろんこの図式はマスコミが煽った部分もかなり大きいが、表現としてはそう間違ったものではない。

競馬はそれを主催者の違いで大きく2つに分けられる。
1つは農林水産省管轄の特殊法人、「JRA」が主催する、「中央競馬」。
普段テレビなどで放映するのはこの中央競馬であり、競馬組織としては世界一の運営力を誇る。
そしてもう1つが「地方競馬」。主催者は各自治体であり、日本各地に存在し、有名なのは南関東の大井競馬など。

地方競馬は独自の運営方法をとっているために、これまで中央競馬との接点は少なかった。
もともとサラブレッドのレベルの違いも顕著なために、地方競馬は中央競馬からの介在を嫌い、中央も地方に見向きもしなかった。

高校生の選手権大会にプロが紛れ込むようなイメージを持ってもらって構わない。

ただ、そんな高校生の中にも、プロを凌ぐ存在が、ごく稀に出現する。

それがハイセイコーであり、オグリキャップだった。

ハイセイコーは、日本の一時代を背負って走った。
高度経済成長の最中、地方に現われた1頭のサラブレッドが、である。

鳴り物入りで中央へ挑戦状を叩きつけたのが皐月賞トライアルの弥生賞。
1973年3月4日の中山競馬場には、12万とも13万ともいわれる観客が詰め掛けた。
本番前のトライアル・レースに、ただ1頭のサラブレッドを見るためだけに、12万の人間が1つの競馬場にいた。

その観客を呆然とさせるほどの力強い走りで弥生賞を圧勝。
返す刀でもう1つのトライアル・レースのスプリングSと連勝を果たす。

そしていよいよ本番。クラシック第1弾、皐月賞を迎える。
これまでの成績は8戦8勝。4月15日の中山競馬場は筆舌に尽くし難いほどの観客だった。
その皐月賞を勝つ頃には社会現象になり、すでに3歳にして「怪物」、「野武士」とも称されるようになっていた。

皐月賞後に向かったダービー・トライアルのNHK杯をも制し、これで10戦10勝。
そして、地方馬が、無敗で迎えるという空前のレースとなった東京優駿(日本ダービー)でボルテージは最高潮を迎える。

人々は口々にハイセイコーの名を悠然と語るようになる。
それは競馬とは無縁の人間をも巻き込み、人々は地方からの刺客の姿と走りに酔いしれた。
5月27日。競馬に携わる人間すべてがただその頂を目指す唯一のレース、クラシック2冠目、東京優駿競争こと日本ダービー。

しかし、2,400mのダービーを2分28秒7で駆け抜けた時、ハイセイコーの前には2頭の馬がいた。

ダービーを制したタケホープは一躍名をあげる。悪役として。
その後もタケホープはクラシック最後の1冠、菊花賞もハイセイコーを2着に退ける。

だが、ハイセイコーの人気は決して収まる事はなかった。
常に1番人気でターフを走り続け、彼を歌ったレコードはチャートの1位突っ走るほどの売り上げとなる。

最終戦績、22戦13勝。
手にしたGIは2つでも、彼の走りに魅入られた者は多い。
種牡馬としてもカツラノハイセイコ、ハクタイセイ、サンドピアリスらGI馬を輩出し、その潜在能力の高さを血で証明してみせた。

おそらく、後にも先にも週刊漫画雑誌(少年マガジン)の表紙を飾るサラブレッドなど現われやしないだろう。

そんなハイセイコーも、2000年、30歳で逝った。
余生を許されたサラブレッドの平均寿命が20歳半ばであることを考えると大往生である。

日本競馬史上の最強馬としてハイセイコーを挙げる人間は誰もいないだろう。

だが日本競馬史上、最も人々の心を惹き付けた馬、というなら、大半の人間は彼の名を推す。

そして地方の怪物の系譜は1頭のサラブレッドが受け継ぐことになる。

場所は大井から笠松へ。時代は20年近く後になる。

芦毛の怪物。日本中をその名と彼のぬいぐるみで埋め尽くしたオグリキャップが現われるのだ。

続く。暗い。近寄りがたい。薄汚れている。
少し前まで、競馬という単語に対してのイメージは劣悪を極めるものだった。

元来が、お上公認の「公営」とはいえ、ギャンブルである。
泥臭く、そして怒号飛び交う競馬場にプラスのイメージを浮かべろというほうが無理な話だった。

だが、1頭のサラブレッドがそんなイメージを劇的に刷新させた。
あまりにも強烈な彼の存在は、競馬の世界とは無縁だった女性ファンを大量に獲得させ、
瞬く間に、たった1年や2年という短い期間だけで日本中に知らない者はいないとさえ言わしめるほどになる。

オグリキャップ。

地方競馬の1場、笠松競馬から生まれた灰色の怪物。
偶発的に生まれた地方の雄が、半ば必然的に中央競馬を席巻していく。
その姿はかつてのハイセイコーと重なる点も少なくなかった。時代は80年代が終わろうとしていた頃である。

ハイセイコーは弥生賞とスプリングステークスを経て、皐月賞へと向かった。
対してオグリキャップはペガサスステークス、現在のアーリントンカップが中央初見参のレースとなる。

そこで人々はまたしても次元の違いを見せ付けられる。
中央のエリートらが名も知らぬ地方馬に赤子の様に捻られる姿は爽快だった。
そしてあのハイセイコーの系譜を継ぐ「怪物の再来」として、彼は一躍注目を浴びることになる。

だが、オグリキャップはクラシック登録を行っていなかった。
大半のサラブレッドは出生時にこの登録を済ませるものだが、それは中央での話。
資金力に余裕の無い地方のサラブレッドがこの登録を無視するのもそう珍しい話ではなかった。
それほどに地方の関係者にとってクラシック競争とは雲の上の話であり、到底現実味のあるレースではないのだ。

故にオグリキャップはクラシック出走への道を絶たれていた。
皐月賞、菊花賞はもちろん、サラブレッドの栄誉の頂点であるダービーへの出走が叶わない。
皮肉な事にこのことがより一層彼への支持を集める結果となる。中長距離戦線であるクラシックを断念した彼は、
当時「残念ダービー」とも称されていた短距離路線のニュージーランドトロフィー4歳ステークスへと駒を進め、やはり大楽勝。

通常の3歳馬ならば秋は菊花賞が最大目標となるが、
前述の通りクラシック出走は叶わない。結果として陣営が選んだ目標は、秋の天皇賞となった。

菊花賞の3,000mに比べて天皇賞(秋)は2,000m。
オグリキャップの父ダンシングキャップは無名ではあったが短距離血統のネイティヴダンサー系であり、
一見して陣営の選んだ道は至極真っ当なものであるかのように見えるのは当然だった。だが、2つの超えるべき敵があった。

まずは年代の差。
菊花賞はクラシック競争であり、同世代との対決になる。
だが天皇賞(秋)は古馬(
4歳以上)の馬にとってジャパンカップや有馬記念と並ぶ秋の最大目標となるレースだ。

当然出走してくるのは屈強の古馬たち。
今でこそ天皇賞(秋)への3歳馬の参戦は珍しくなくなったが、
当時としては異例であり、無謀ともいえる挑戦であった。しかし陣営は迷うことなく出走を決める。

もう1つの敵は1頭のサラブレッド。
その年の春の天皇賞と宝塚記念という、中長距離GIを連覇した現役最強馬の出走である。
その年の金杯、阪神大賞典、天皇賞(春)、宝塚記念と連勝してきた、紛れも無い当時の最強馬がいたのだ。

同じく芦毛の怪物。彼の名をタマモクロスという。

思えばタマモクロスも不思議な馬だった。
前の年の12月までは1勝するのにも手間取っていた条件馬だったのだ。

だが12月のレースから年をまたいで破竹の連勝劇。
通常、競馬の、サラブレッドの連勝というものには固定されたパターンが存在する。
それはシンボリルドルフやトウカイテイオー、ミホノブルボンらのように、デビューからの無敗劇である。
圧倒的な能力のポテンシャルを武器に、同世代を完膚なきまでに打ちのめしていくのが一般的な連勝というものだ。
もう1つのアーキ・タイプを示すとするならば、ホクトベガのように芝からダートへ路線を変えての連勝というのが、あるにはある。
だが、これもダートをデビュー戦と考えるならまさに水を得た魚であり、実質ルドルフらのパターンと、本質としてはそう変わるものではない。

だがタマモクロスは違った。まさに「馬が変わった」のだ。
たった半年で一介の条件馬は春の天皇賞を勝ち、現役最強の位置にまで登りつめた。
春の天皇賞までも鳴尾記念や金杯、阪神大賞典を勝っており、春の天皇賞後もGI、宝塚記念を勝利する。

オグリキャップがいなければ、彼がスターダムの頂点にいたはずだ。
だがしかし、やはりあの「ハイセイコーの系譜」を継ぐオグリキャップに人気で勝てなかった。
世代の違いもあっただろう。オグリの方が1つ年下であったが、やはり年下が年上を打ち負かす姿をファンは期待した。

その年の秋の天皇賞にはそういった背景があった。
奇しくもオグリキャップもタマモクロスも芦毛(
出生時は灰色で成長と共に白くなる毛色)だったのも興味深い。

両者共に連勝劇を演じ、そして共に、同世代では図抜けた存在であった。

そんな秋の天皇賞を制したのは、タマモクロスだった。
中央入り後、はじめての敗北。オグリキャップにも、勝てない相手がいた。
両者がまたも相見えたその後のジャパンカップでもタマモクロスが年上としての意地を見せた。
勝ったのはアメリカのペイザバトラーだったが、タマモクロスは2着を譲らず、オグリキャップを3着に沈めたのだ。

そして1年の総決算、年末にして最大のレース、有馬記念を迎える。
タマモクロスはこれが現役最後のレース。オグリキャップにとっては意地でも、是が非でも、彼に勝っておきたかった。

タマモクロスはここまでGI3勝。
しかも史上初の、同一年天皇賞の春秋連覇を果たしている。
この有馬記念に勝とうとも負けようとも、年度代表馬の座は確定していた。
さらに、このころのタマモクロスの体調は、陣営が出走を躊躇うほどにひどかった。
10月の天皇賞(秋)と11月のジャパンカップという、JRAでも最も過酷なレースを走り続けてきた。
オグリの最大の武器は精神力と、そして丈夫さに支えられていたが、タマモクロスにはその後者が足りなかった。

だが陣営は出走を決めた。
最後のレースである。そして有馬記念はファン投票による出走で臨むのである。その期待に応えたかった。

そして、オグリキャップに最後の引導を。
彼は逃げずに有馬記念へと駒を進めた。ならば、最強馬たるこちらが逃げるわけにはいかない。

そんな有馬記念を、オグリキャップは勝利した。
タマモクロスは2着。最後の最後で、ようやく1つだけ、借りを返すことが出来た。

場内に湧き上がるオグリ・コール。
だが、敗れたタマモクロスにも、惜しみない拍手と歓声が送られた。
泣き崩れる者もいた。両者のこれまでを考えるならば、それは特に不思議なものではなかった。

そして翌年から、オグリキャップの伝説がはじまる。
だが、またしてもオグリの前に2頭のライバルが立ちふさがる。
1頭はイナリワン。オグリに負けない屈強な精神力と負けん気の強さで彼を苦しめる。

そしてもう1頭がスーパークリーク。
オグリが出走すら果たせなかったクラシックの1つ、菊花賞を楽勝した逸材である。
そんな彼の背には1人の騎手がいた。デビュー2年目にしてスーパークリークという名馬との出逢い。

武豊。

天才の軌跡のすべては、この馬からはじまるのだ。

かつて武豊はこう言ったと記憶している。
「これまで数多くの名馬に跨ってきた中で、最も愛着のある馬は?」
そういうインタビューだったように思う。通常ならば、固有名詞を挙げる事はしないのが騎手だ。
それ以外のサラブレッドはもちろん、関係者への手前もある。だが、武豊は少し考える仕草の後、口を開いた。

「やっぱり、スーパークリークですね」

オグリキャップのライバルといえば、イナリワンでもなく、タマモクロスでもなく、スーパークリークだった。

88年の有馬記念でタマモクロスを破ったオグリは、翌89年の秋までを休養に充てた。
1年に10戦をこなすという過酷なローテーションは、さすがのオグリにも負担が大きかったのだろう。
復帰戦は9月のオールカマー。ここを1番人気で楽勝したオグリキャップの目標を、陣営はまず天皇賞(秋)に定めた。

昨年タマモクロスの後塵を拝したレースである。
そして天皇賞(秋)の前哨戦、毎日王冠でイナリワンとデッド・ヒートを演じる。
この89年10月8日のの毎日王冠を、オグリのベスト・レースとして推すファンも数多い。
長い東京の直線をたった2騎だけが競り合い、互いに全く譲ろうとしない、まさに壮絶の一言だった。
イナリワンも地方出身ながら、その年の天皇賞(春)と宝塚記念を連勝してきた中長距離界のトップの座に君臨していた馬だ。

さらに、イナリワンはGI2勝、オグリキャップは1勝である。
そういったプライドもあったのだろう。1,800mはオグリの最も得意とする距離であり、
むしろ長距離砲のイナリワンにとっては不得手とする距離ではあったが、イナリワンは決して譲ろうとしなかった。
結果、最後の瞬発力の差で軍配はオグリにあがった。だが、1,800m以下の距離でオグリを苦しめたのは後にも先にもイナリワンが唯一だった。

オールカマー、毎日王冠と連勝したオグリは予定通り秋の天皇賞へ向かう。
しかし、そこに、いた。武豊というスーパー・ヒーローを背にしたスーパークリークが、である。

スーパークリークは前年の菊花賞を制していた。
だがその直後に向かった有馬記念、オグリキャップがタマモクロスを破ったあのレースに、実はスーパークリークはいた。
しかしそのレースで、オグリ、タマモに次ぐ3着入線を果たしていながらも、失格という憂き目にあっていた。期すものはおそらく誰よりも強かった。

直線で抜け出したスーパークリークを猛然とオグリキャップが追う。
長い東京の直線。だが、スパークリークと武豊はその猛追を僅かに首差押さえ切った。
2,000mという距離は、やはりスーパークリークよりもオグリキャップの方に分のある舞台である。
さらに直線の長い東京競馬場では、末脚(
ラスト・スパート)にかける、後ろからのレースが活きる競馬場であるからだ。

それを武豊が封じ込めたのだ。
着差は首差であっても、それ以上に強さと上手さが光った名レースだった。

2年連続で秋の天皇賞2着という結果に終わったオグリの陣営が次に選んだのが、マイルチャンピオンシップだった。

さすがに1,600mという短距離戦には、イナリワンもスーパークリークも出走しない。
だが、ここにも厄介な敵がいた。直線のみで弾けるように飛んでくる、通称「ブリッツ」ことバンブーメモリーだ。
さらに陣営を不安にさせたのがバンブーメモリーの鞍上である。そこにはまたも、3週間前に煮え湯を飲まされた憎き少年、武豊がいたのである。

直線粘りこみを図るオグリに、今度は猛追をかける武豊とバンブーメモリー。
同時にゴール版に飛び込んだ2騎。場内でも、テレビでも、優劣はつけられなかった。
結果、鼻差で今度はオグリキャップが武豊を抑えた。これでGI2勝目。ようやくイナリワンとスーパークリークに並んだ。

しかし、それぞれの距離別にスペシャリストのライバルがいたのはオグリにとって幸か不幸か。
この4騎がいなければこの時点でGI4勝という成績だったのだ。だが、彼らがいたからオグリは光ったのもまた事実なのだ。

そしてこのマイルチャンピオンシップの翌週、人々は度肝を抜かされる。
オグリキャップのジャパンカップ出走。その週にGIを勝った馬が翌週のGIに出走するなど前代未聞。
それどころか今後もおそらく出ないだろう。人間がフルマラソンを1月に2度も3度も走るのと同じである。常識外だ。

この後にダイタクヘリオスがスプリンターズステークスの翌週に有馬記念に出るという事もあったが、
あれは有馬記念がその性質上、ファンに対しての顔見せだった。だが、オグリの場合は違う。前年3着。勝ちに行くのである。

89年のジャパンカップは、様々な意味で伝説のレースとなる。
オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワン。現役最強の3騎が揃っての出走。
イナリワンはここを勝って2騎に対しての初白星を、スーパークリークは天皇賞(秋)を制して勇躍この地へ。
そしてオグリキャップにとってはスーパークリークへの雪辱、そして2週連続GIに批判を集中させたマスコミへも期すものがあった。

だが、伝説のレースを制するのは彼らではなかった。彼女、である。

ホーリックス。

彼女はニュージーランドからの招待馬。
今では彼女は母国でまさに伝説として敬われている。
日本でいうなら力道山的な存在に近い。それほどまでに、彼女はその存在が伝説だった。

2分22秒2。

89年のジャパンカップの決着タイムである。
これは15年経った今でも破られるどころか近づく事すら許されない聖域。
イナリワンも、スーパークリークも、ついていくことがやっとだったこのレースで、だがオグリだけが違った。

ゴール前で猛追し、ホーリックスに迫るオグリ。人々は狂乱に近い歓声で後押しする。
決して競馬先進国ではない南半球の名も知らない女馬に、我らがオグリが負けるものか。内心はこれだった。
さらにマイルチャンピオンシップの翌週でのこのパフォーマンス。負けてくれるな、差し切って3つ目のGIをオグリに、と。

ハナ差。そして同タイム。
オグリキャップとホーリックスは2,400mを2分22秒2で走破した。
先ほどこのタイムは今も破られていない、と書いた。聖域である、とも書いた。自信がある。
だが驚くべきは日本だけではない。世界を見渡してもこのタイムは破られていないのだ。紛れも無い世界レコードである。

タイムを競うスポーツで10年以上も世界で更新されないということは、まず無い。
だが、89年の日本、東京競馬場で起こったそれが、今でも神話として続いているのだ。

つまりこの2頭は、世界中で最も速く走ったサラブレッドなのだ。

掲示板に灯るレコードの文字。
そして走破タイムを目にした観客は、我が目を信じなかった。
2分22秒2。人々は、スピードの限界を垣間見た。世界ではじめて拓いた感覚がそこにあった。

イナリワンもスーパークリークも、脇役に過ぎなかった。
オグリキャップの伝説として最も語られるべきがこのジャパンカップであり、ハイライトである。
だが、それでもオグリキャップはオグリキャップだった。この先にもう1つだけ、人々を歓喜の渦に巻き込むレースを魅せる。

89年11月26日、東京競馬場のジャパンカップ。
1着ホーリックス、2着オグリキャップ、3着スーパークリークだった。

そして90年へと向かう。オグリキャップ現役最後の年である。

伝説のジャパンカップから1ヵ月後の89年のクリスマス・イヴの日、
オグリキャップの姿はもちろん中山競馬場にあった。有馬記念、グランプリへの出走である。
ファン投票はダントツで1位。2,400mのジャパンカップであの走りなら、2,500mの有馬記念でも好勝負を見せるはずだ。

ファン投票1位、かつ馬券でも1番人気で、この年のグランプリはオグリキャップのためにあった。

だが、彼がゴール板を迎えたときには、すでに4頭が前にいた。
結果は4馬身3/4差での5着。直線まったくといっていいほどに伸びなかった。
勝ったのはイナリワン。2着にスーパークリークが入り、中山競馬場を落胆の吐息が埋めた。
イナリワンはこれでこの年春の天皇賞、宝塚記念と合わせてGI3勝。文句無く年度代表馬の座に選ばれた。

惨敗の原因は諸説あったが、やはりジャパンカップでの激走だったのだろう。
しかもジャパンカップの前週にはマイルチャンピオンシップへも出走している。約1ヶ月でGIを3走したのだ、これは当然である。

そして1990年に入ったオグリキャップの初出走はGIの安田記念だった。
5月13日東京競馬場。1,600mではぶっつけでもオグリに敵はいない。当然のように1番人気だった。
そしてファンを歓喜させたのがその鞍上。スーパークリークやバンブーメモリーを駆りオグリを苦しめた武豊が、オグリの背にいたのだ。

1着オグリキャップ。2着のヤエノムテキに2馬身差をつける圧勝だった。
GI3勝目。返す刀で臨んだのが1ヵ月後の宝塚記念。ファン投票による夏のグランプリである。
このレース、大半の人間がオグリの楽勝を疑わなかった。それほどに、相手関係が楽だと思われていたのだ。

さらにこの2ヶ月前、あのスーパークリークが春の天皇賞を制していた。
だが彼は宝塚記念に姿をあらわさなかった。疲労の回復が難しい夏のレースを避けたのだ。
その春の天皇賞で2着に食い込んだイナリワンの姿はそこにあった。だが、彼もすでにピークを超えていた。
前年に中長距離GIを3勝し、年度代表馬に輝いたイナリワンだが、天皇賞(春)ではスーパークリークの前に完敗し、
さらにその前哨戦だった阪神大賞典では得意とする3,000mで楽な相手を前に折り合いを欠き、5着と惨敗を喫していたのだ。

2,200mの宝塚記念はオグリの守備範囲である。
断然の1番人気を疑う要素を見つける事の方が難しかった。そんなレースだった。

だが、オグリキャップは2着に敗れた。
イナリワンに敗れるのなら、まだ納得も出来ただろう。
だがイナリワンは4着。このレースを最後にライバルの1頭が現役を終えた。
勝ったのはオサイチジョージ。中距離戦線で活躍をしていた馬だが、役者が違っていたのも事実だ。
だが、なんという事の無いレースで、なんという事のない相手に、オグリキャップは破れた。しかも3馬身半という屈辱的な大差で。

この宝塚記念を機に、オグリは変わった。もちろん悪いほうに。

この宝塚記念はオサイチジョージのフロック(まぐれ)と片付けられた。
実際オサイチジョージはこの後に活躍する事は無かった。結果としてフロックだったのだろう。
だが、オグリ本人にとってはそんなことは関係なかった。敗れたこと自体は事実なのだ。それも、あれほどの大差で。

秋を迎えた陣営は、初戦を天皇賞(秋)に定めた。
ぶっつけ本番を苦にしないオグリの体質ももちろんあったが、
天皇賞→ジャパンカップ→有馬記念と、秋の中長距離グランド・スラムが目標である。
毎日王冠などの前哨戦を使えば、体調を整える事も容易であり、実践感覚を取り戻す事も出来る。
だが反面、確実に疲労は残ってしまう。仮に天皇賞やジャパンカップまでは全力で走ることが出来たとしても、
有馬記念の頃には蓄積された疲労で実力を発揮する事は難しい。これまでも幾多の名馬とその陣営が悩まされた路線である。

それを踏まえ、オグリの陣営は前哨戦を使わず、GI3連戦に臨む事を決めた。

その90年秋の天皇賞。オグリはもちろん1番人気である。
前年はスーパークリークの2着。一昨年はタマモクロスの2着という因縁のレース。

だがこの90年のレースには、確固たる相手は見当たらなかった。
イナリワンは夏の宝塚記念を最後に引退。スーパークリークも出走する予定であったが、
前哨戦の1つ京都大賞典を制したスーパークリークもまた、故障によりこのレースを最後に現役を去っていた。

だが、それでもオグリは勝てなかった。
勝ったのは安田記念で2着に沈めたヤエノムテキ。
さらに生涯はじめて掲示板(
5着以内)を外す6着という失態を演じる。

ファンの誰しもが首をかしげた。惨敗の原因がハッキリしなかったためだ。
夏の宝塚記念は勝ったオサイチジョージの、生涯唯一の激走と仮定する事が出来る。
だが、この秋の天皇賞。距離はオグリの得意とする2,000m。東京競馬場も安田記念を制しており、問題ない。
何しろ昨年と一昨年には2着とはいえ名だたる相手に2着しているのである。ぶっつけ本番という点も、これまで好成績を残している。

では、何がオグリを変えてしまったのか。
その答えが、残酷な答えが、次のジャパンカップで証明された。

11着。

前年、ニュージーランドの女帝と演じた伝説劇が、まるで嘘のようだった。
1番人気で臨んだオグリキャップだったが、後方のまま、何も抵抗することなく、そのまま沈んだ。

終わったのである。
サラブレッドとしてのピークを超えたのだ。
オグリキャップといえども1頭のサラブレッドだ。成長のピークを、この年の夏で終えてしまったのだ。

6着、11着という結果は、それを証明するのに充分だった。

そしてオグリキャップ現役最後のレースを迎える。
一昨年でタマモクロスに引導を渡し、記念すべき初GIを手にしたレース、有馬記念。
ファン投票はやはり1位。だが、馬券人気は違った。4番人気だった。ファンの真理は如実に現われていた。
そしてその鞍上には武豊がいた。2度目の騎乗。安田記念を制したこのコンビでも、馬券人気では4番目に留まっていた。

「オグリは終わった」

「今までありがとう」

そんな声が日本中にあった。
この年の有馬記念は不思議な雰囲気だった。
1年の総決算。競馬ファンは有馬を勝たないと年を越せないとまで言われるレースだ。
レース単体の人気で言うなら、ダービーをも凌駕する。日本で最も人気のあるレースが有馬記念なのだ。

そして、レースがスタートした2分34秒後に、日本が揺れた。

1990年12月23日、中山競馬場。
人々は、たった1頭のサラブレッドを前に、心の中で跪いた。

1着オグリキャップ、2着メジロライアン。

武豊を背に、オグリキャップは勝った。
メジロライアンにゴール前強襲されたものの、3/4馬身抑え切ったのだ。

ある者は叫んだ。感謝の言葉や、意味を持たない言葉とを。
ある者は号泣した。地に伏せり、目の前に起きた現実を必死で受け入れようとしていた。
ある者はただ、呆然と立ち尽くした。たった数十メートル先の事実が、その者に受け入れられまでに時間を要した。

それらがテレビの向こうでも、何万人を前に起きていた。

日本はその瞬間、確かに何かに捕われていた。
筆者は、ただテレビの前で涙を流した。歓喜ではない、ただ、ショックだった。

そしてオグリキャップはターフを去った。
20戦12勝。GI4勝(有馬記念2回、安田記念、マイルチャンピオンシップ)。

地方から現われた灰色の怪物に、人々は決定的な印象を植え付けられた。
紛れも無く、日本を競馬界に巻き込んだ1頭であり、ハイセイコーの系譜を継ぐ者だった。
そして現在の日本の競馬界では、まだオグリキャップ以降、その系譜を継ぐ者は現われていない。

オグリがターフを去って14年。
残念ながら、彼は父として優秀ではなかった。
彼のようにGIを勝つどころか、重賞を勝つ馬も輩出できないでいる。
それはイナリワン、スーパークリークも同様で、競馬の現実の厳しさに重い気分にさせられる。

タマモクロスは幾多の名馬を輩出したが、昨年、天に還っていった。
だが、オグリキャップもイナリワンもスーパークリークも、幸いな事に健在である。
馬産地を訪れる競馬ファンからは、変わらずに高い人気を博している。永遠のスーパー・ホースなのだ。

あの頃、日本の競馬には華があった。

そして今、違った視点から、ハルウララという1頭のサラブレッドが人気を博している。
果たして彼女がハイセイコーやオグリキャップのように、日本中を巻き込んでの競馬ブームを牽引していくのか、興味は尽きない。

いつか、この目でオグリキャップに会いに行きたい。
あれから10年を裕に越えてしまったが、君に言いたい言葉はいくつもある。

あの時、あの天皇賞の時、君ではなくタマモクロスを応援していたんだよ、と。
あの時、あのジャパンカップの時の走破レコードは、未だに破られないすごいタイムだよ、と。
あの時、あの有馬記念の君のラスト・ランの時、驚きのあまりテレビの向こうで知らないうちに泣いてしまっていたよ、と。

そしてただ、ありがとう、と。