―――俺たちは登り始める。長い、長い坂道を・・・―――

彼女は願った。

強くありたいと。

強く生きたいと。

彼は祈った。

そうすることが、すべてだった。

これは、そんな2人の、想いの変遷の物語。

 

 「key」とはそもそも、「ビジュアルアーツ」という会社の、1つのブランドに過ぎない。法人格ではなく、いわば集団なのだ。人数は決して多くなく、10名にも満たなかったはずだ。そんな彼らが世に発表した作品が2つ。PCゲームの1つの流れを作った「Kanon」と、圧倒的なボリュームと完成度で「ゲーム」というものの本質を世に問うた「AIR」の2作品がそれだ。そしてそのたった2作品で、「key」は不動の評価を得た。

 その評価は、繰り返すが、不動だ。なぜか。それ以上の余地が無いからだ。人々の感性に鋭く突き刺さったストーリー・センスは、時を経るにつれてその評価を上昇させている。そんなチームが満を持して送り出した3作目の作品、それがこの「CLANNAD」である。

 満を持して。この表現は間違いではないだろう。何せ「AIR」の発売が2000年の9月。「CLANNAD」は2004年の4月である。都合3年半。PCゲームに比べて圧倒的に市場の大きなコンシューマー界では珍しい事ではない。しかし、PCゲームとして、1つのブランドがこれほどの年月を費やして製作されることは稀だ。それだけの余裕、製作にかけられるだけの予算や人材、時間が厳しいのだ。おそらく、現状を見渡してそれが許される、ファンが許すのは「key」を差し置いて他に無いだろう。それだけの評価を「Kanon」と「AIR」の2作品で得ているともいえる。

 感想が冗長となる前に、結論から述べよう。これは、この作品には、3年半という年月が必要だった。むしろよくぞたった3年半でこれだけの作品を作り上げたと感嘆を漏らす。それほどにゲームとして、どの要素も突き詰めるだけ、突き詰められている。これは一言で表すなら「プライド」だろう。これまでの2作品で培った彼らの、才華の発現といっていい。ゆえに、どういう表現をもってしても、虚飾としかなりえない。これが功罪であり、本音だ。

 今後、ストーリーに魅力に置いた、要するに「読ませる」ゲーム作品は、この作品を最終目標として作られる。手本であり、教科書であり、そして理想形だ。圧倒的なクオリティとポテンシャルからは一切の妥協を感じ取れない。その源泉はおそらく、これまでの2作品からの自負だろう。褒めているのではない。淡々と感じた事実を並べているだけに過ぎない。一定以上の期待はあった。確信もあった。だが、どれもそれ以上だった。

 真摯な、というよりはもやは直情的なまでに彼らのエゴが詰まりきった作品である。彼らの放った信号がほとんど不純な要素を排して、直接プレイヤーの心理にまで押しかけてくる。焼け付くような痛みや溢れんばかりの優しさ、陰陽が表裏一体となった完璧なパッケージ性。これこそが「key」であり、そして「key」である所以だろう。奔放でいて大仰、あまりにも広大に広げられたストーリーを、緻密でいて綿密、徹底して合理化されたシステムと演出が支える。そしてそのストーリーの本質は、おそらく我々の最も身近にある感情が礎となっていることに気付くはずだ。

 作品の本質的な内容には触れない。ぜひとも手に取り、そして読み、聴き、感じて欲しい。果たしてこれほどまでに完成されたゲームに、我々は出会えているだろうか。この作品ではじめて「作品」足りえるものに出会うことが出来るかもしれない。どう表現を繕おうとも、たった1本、「CLANNAD」という作品をプレイし終えてあなたに迫る感情は、想像に難くない。それは「幸福」だろうと確信する。

 ふとこの作品のどこに一番の魅力を感じるかを考えた事がある。シナリオの質、テキストの巧妙さ、湧き出でるキャラクターへの愛着心、徹底された演出面の妙、感嘆の吐息しか漏れないグラフィックの美麗さ、そして相変わらずの音楽。どれか1つを選ぶことは難しい。いや、それは不可能のはずである。それらが一体となり、1つのパッケージとしての「CLANNAD」こそ、評価されるべきであり、それ以外は必要としない。

 だからこそ、「完成度」という表現を用いる。PCゲームはもちろん、コンシューマーのゲームに於いても、これほどまで見事に構築された完成度を誇る作品は類稀である。それはやはり、繰り返す事になるがそれぞれの分野でのプライド、意地と誇りがそうさせた結果なのだろう。彼らの評価は、PCゲームの世界にありがちな、頭でっかちで薄っぺらいそれが源泉ではない。だが、それを未知の方へ説明する事は非常に困難だ。正確を期すなら、それは不可能と言っていい。だからこそ、本当にゲームというものに関心を持つ方へ、この作品は避けて通ることの出来ない道だと記したい。

 何のためにこの作品は生まれ、存在するのか。それはただ一般として消化されるだけではないだろう。1つのタイプの最高傑作として、模範となりうる作品だからだ。ただひたすら作り手が遊び手に伝える事のみに執着し、ゲームを模る全ての要素が、ブレることなくただ真っ直ぐ、そしてひたむきにプレイヤーへと向かってくる作品である。そしてそれが、このタイプの、シナリオ系AVGの本懐のはずだ。

 つまり言い換えれば、「CLANNAD」は、ただごく普通のシナリオ系AVGに過ぎない。悩んだ結果、この表現をもって短評としたい。

 さてここで疑問が残る。作り手は、「伝える」ことか「遊んでもらう」ことか、どちらに重点を置いたのだろう。プレイヤーの大半は、伝わったし、十分に遊んだはずだ。だが、伝えるために遊んでもらうのか、遊んだ結果伝わるのか。それはどちらだろう。それすらも問わないのか。ならばこの作品は、とんでもない域にある。手段と目的という2つの概念が、従来のゲームというものの域に無い、という表現の方が伝わるだろうか。

 実はこれを書きながら悩んでいた事がある。それは、「このテキストは未プレイの方へ向けるべきか、プレイを終えた方へ向けるべきか」、というものだ。そしてこの文は、前者へ向けてのものだ。というよりも、後者へ向けてのテキストは書くべきでない。なぜか。この作品が齎す感想は、各々が胸に秘め、そして大切に仕舞っておくだけでいい。元来よりシナリオ系AVGの内容をしての感想は述べるべきではない。他のジャンルに比べ、発信者から受信者への真意が伝わり難いからだ。どうしても表現したいならただ、「面白い」だけでいい。それ以外はすべて虚飾となる。

 おそらく、この文を読んでどういうゲームか、という意味ではほとんど伝わらないはずだ。意識的にそう書いた。それを伝える必要は無いと思うからだ。そういう意味では未プレイへ向けた方への文でもない。ただプレイを終えた1人の人間の、純粋な感想文に他ならない。それを踏まえて、興味をもたれた方がおられれば幸いであるし、一縷の意義もあったというものだろう。むしろそれ以外に、自己満足を除いて意義は無いととらえてもいい。

 当初はもっと内容的なものを踏まえての感想を記そうと思っていた。各キャラクターのシナリオや、その先に待つ「CLANNAD」としての結末。細部に散らされた伏線や主要メッセージの持つ意味合い。「ここはこうであって、こう評価すべきだ」というような内容のテキストも考えていた。だが、やはり違う。答は1つか。そうではないはずだ。プレイヤーが100人いればこの作品から伝えられたメッセージは少なくとも100通りある。

 ただ、嬉しかった。ただ、ありがたかった。それが、自信を持って、揺らぐことなく言い切れる「感想」だ。

 今後、これほどの作品は現われないだろう。それが現われる「key」の次回作まで、それを待ち続けたい。

 

 以下に主要スタッフ、そして備考を記す。

企画
麻枝准

シナリオ
麻枝准、魁、涼元悠一

原画
樋上いたる

彩色

しのり〜、Na−Ga、餅介、鳥の

音楽
折戸伸治、戸越まごめ、Key(麻枝准)

主題歌
OP「メグメル」(riya)挿入歌「Ana」(Lia)
ED「−影二つ−」(riya)、「小さなてのひら」(riya)

 

媒体:DVD−ROM1枚+アレンジ・サントラCD(初回版のみ)

価格:¥7,500

クリア対象キャラクター数:14前後

予想プレイ時間:35〜40時間前後

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