時の奏でる狭間の向こうで

−1−

 ただいま、と呟く事すらなくなって久しい部屋は、いつものように冷たく無機質に僕を迎えた。薄い青色のカーテンの向こうでは、鬱陶しいくらいにしとしとと空から雫が落ち続けていた。カーテンを退けなくても解るほどに、夜陰の雨は少量で、だが長い間降り続いていた。6月に入ったところなのに、テレビでは殊更喜ばしい事のように「例年より二週間近くも早い入梅です」と繰り返していた。

 職場である洋菓子専門店も、さすがにこの雨では商売上がったり、というやつだった。店舗マネージャーと言う立派な肩書きも、月が変わった直後は月末のそれと反比例して比較的暇になる。入社して六年目。職柄が職柄なために時間的には不規則な労働を強いられるのも珍しくは無いが、それでも僕はこの職場が気に入っていた。そんな職場、「井上洋菓子店」を今日も午後六時に後にした。

「お店はオシャレなんだけど、名前だけ聞くとちょっと堅い感じがするわよね」

 真由美は最初、そうやって笑ったものだった。僕が井上洋菓子店でアルバイトとして雇ってもらったのが高校二年の時だった。それから店舗の中で責任のある位置につかせてもらうようになるまでに四年かかった。店長の井上さんは齢五十を過ぎているはずだったが、身形はいつも綺麗だし、ほとんど笑みを絶やさない性格から、お客さんにもよく十ほどは若く見られるのが常だった。真由美など三十代の後半だと思っていたらしく、店長の年齢を聞いたときには餌を待つ鯉のように口をパクパクさせて驚いていたのを、僕は今でも彼女をからかう材料にしている。するといつも決まって真由美は「忘れてよ、もう」と口を尖らせる。彼氏である僕から見た贔屓目だとしても、真由美もよく笑う人だった。笑う、といっても声に出して笑う事は少なくて、どちらかというと微笑んでいる印象が強い。そんな彼女でも、店長の歳の事を持ち出すと少しだけ不機嫌になった。僕はそれが好きだった。

 そんなことを思い出したのは、部屋に帰ってすぐ目に付いた留守番電話の赤い灯りだった。僕からするとやや早く明滅しているように見えるそれが天気と相まって鬱陶しさを余計に感じさせた。軽い溜息に似た吐息を吐き出しながら、再生のボタンを押した。

「こんばんわ、でしょうか。真由美です。明日、良かったら一緒に夕ご飯どうですか。返事を下さい」

 留守番電話は今日の午後二時の少し前に録音されたものだと、冷徹なアナウンスが告げていた。となると、子供たちを寝かしつけた後のささやかな息抜きの間だということになる。以前は携帯の方に直接かけてくれたらいい、と何度も言ったのだが、真由美は少し困ったような顔で「でも」を繰り返すだけだった。真由美は今となっては珍しく携帯電話を持っていない。仕事柄それほど必要としないのと、高校を卒業するのと同時にこちらへ一人でやってきた彼女に、親しいと呼べる友人はほとんどいないようだったから、さほど必要としていないのだと言っていた。

 直前に溜息を吐いたことを悔いつつ、すぐに受話器を取り上げる。短縮ダイヤルを操作するよりも早く、手が彼女の自宅をダイヤルしていく。手馴れたものだと思いつつ、そんな自分が好きだった。だが、そんな心境とは裏腹にプルルル、という慈悲の無い呼び出し音が続く。呼び出し音が四回続くと留守番電話に切り替わるはずだったが、もう十回近くコールし続けている。ということは、また彼女は留守電に切り替える事を忘れて仕事に出てしまったらしい。時間が時間だけに僕の家に電話したのが職場からだろうから、つまりまだ真由美は帰っていないということらしかった。

 十四回目まで数えた呼び出し音を最後に受話器を下ろすと、そのまま僕は着替えもせずに部屋を後にした。帰宅してからおよそ数分の間。結局明りすら灯す事もなく、小雨が降り続く街へと出かけた。薄いブルーのカーテンが部屋に色を落としていた。梅雨時の雰囲気とそれは迎合していて、暗い印象を与えるそれは、珍しく真由美が強請って買ったものだった。

−2−

 オートロックの出入り口を内部から操作する。簡単なボタン一つで五秒間だけドアが開閉する仕組みになっていた。僕がボタンを押すと五秒間だけ命を与えられるように思えて、あまり好きではなかった。一度だけ、ボタンを押したまま数十秒見つめ続けた事がある。ボタンを押した五秒後にカチリという、注意しなければ気付かないような音を立てて、ドアは何回目か、何百回目か、それとも何億回目か解らないけれど、死んだ。その時コンビニに飲み物を買いに行こうとしていた僕は急にその気を殺がれ、そのまま部屋に戻って、清浄機の効果が薄くなったせいでややカルキ臭さが気になる水道水を飲んだ。その水はやはり美味しいとは感じられず、なぜかひどく落ち込んでしまった僕は、そのままベッドで翌日を迎えることになった。

 真由美の事であまり気にはならなかったが、仕事で不和があった時や、急な夕立のおかげで濡れ鼠になった時などの不機嫌な時には、必ずオートロックの生命が気になるが、ボタンを押した一秒後には僕はマンションを後にしていた。その必要も無かったけれど、見上げた空はやはりどんよりとしていて、今の僕の気分とはかけ離れた空だった。一応手には傘を二つ持っていたのだが、それらは必要なさそうなくらいに雨は小降りになっていた。

 目的とした建物は十分も歩かないうちにその敷地に足を踏み入れる事が出来た。それほど新しいものではないはずなのだが、何度かリフォームというやつを行っているせいか、築年数を感じさせない。それが真由美の数少ない自慢の一つだった。何も彼女が自慢できる事ではないのだけれど、やはり職場が美しいのは心が弾むのだろう。この話題になると珍しく彼女の口数は増えた。

「あら、一也さん。こんばんわ」

「あ、園長。こんばんわ」

 いつものように正門の辺りで部屋のほぼ全てが煌々と光る二階建ての二階部分を眺めていると、後ろから声をかけられた。振り返ると両手に大量の書類を抱えた初老の女性が微笑んでいるように見えた。もうずいぶんと暗くなっているのでハッキリはしなかったが、目が慣れるとやはり園長先生は微笑んでくれていた。蒸し暑さも手伝ってか、園長先生の顔には玉のような汗が光っていた。

「持ちますよ」

「あら、悪いわね」

 小柄な園長先生が両手に抱えるような書類も、学生の頃から大柄ではないにしろどちらかというと筋肉質な方である僕が持つと頼りないくらいに軽かった。そんな僕が洋菓子店でケーキを売り、時には客に愛想笑いを振り撒き、時には書類と電卓を相手に唸っている姿が想像できないらしく、園長は今でも「不思議ねぇ」を繰り返すことがある。確かに言われてみれば、豪華にデコレーションされた洋菓子を売るようには見えないかもしれない。いや、それは真由美も言った。「建築現場でツルハシを振ってる、って言う方が説得力はあるかも」。そう言って彼女は笑ったものだった。まさか今のそういう現場でみんなが一斉にツルハシでガンガンやってるような現場ではないだろうが、言わんとしているところは解る。

「真由美さん?」

「あ、はい」

「どうぞ。もう少し時間がかかりそうだからお茶でもお飲みになって?」

「いただきます」

 このやりとりももう何十回繰り返したのだろうか。今では遠慮という言葉を取り出すのに一々何度も考えなくてはならないほどに、僕はこう言う時お世話になりっぱなしだった。そのお返しとして時々菓子折りを提供するのだが、それでも全然つりあいは取れていないと思う。

「それにしても暑いわねぇ」

 そういって空いた両手でパタパタと仰ぐ格好をする園長先生。僕の方はと言えば重くは無いがやはり労力を消費しているようで、もう汗が滴り落ちてきそうだった。そうして僕と園長先生は、いつものように大きな、木で出来た「たいよう幼稚園」の看板がある正門をくぐった。

−3−

「嫌ねぇ。急に壊れちゃったのよ」

 そう言いながら園長先生は二杯目の麦茶を飲み切った。汗だくになるのが解っていたらしく、喉を通ると痛いくらいにキンキンに冷やされた麦茶が、とても美味しく感じられた。園長先生は園長室に置かれた大仰なコピー機を恨めしそうに眺めていた。

「壊れた?」

「ええ。ついさっきね」

 そう言うと同時に園長先生の口から溜息が漏れる」

「それでわざわざコンビニまで?」

「そうなの。重かったわあ」

 この幼稚園から一番近くのコンビニエンス・ストアまではそう遠くない。普通に歩けば五分とかからない所にあるが、行きはともかく、このいかにも非力そうな園長先生が大量の書類を持って歩くには辛い道程に違いなかった。僕は何気なくコピー機に近づきながらふと嫌な予感にぶち当たった。このコピー機は園長先生にこれまでに数回「故障」という烙印を押された経緯がある。だがその大半は園長先生の過失であり、原因はとてもシンプルなものが占めていた。園長先生だって人に教え、育てる立場にある。まさか同じ轍は踏まないだろうと思いながらコピー機のディスプレイを見た。

「・・・園長」

「なあに?」

 言うべきかどうか迷ったが、こんなことで呼ばれたサービスマンの立場に立つとやるせない気持ちになるのは明らかだ。

「か・・・紙が」

「紙が?」

「ありません」

 僕が園長先生から受け取った書類の束は、そのサイズがすべてA4サイズだった。そしてディスプレイはそのA4サイズの紙切れを示すランプを明滅させていた。そういえば前回はトナー切れ。これは仕方ないにしても、その前は園長先生が誤って踏み、その結果引き抜かれた電源が原因だった。

「あらあら」

 困ったように園長先生は笑う。どう見ても還暦に近い年齢とは思えない。若々しくてエネルギッシュで、園長先生は綺麗だった。

「それじゃコピーは出来ないわね」

 園長先生と同じように僕も困ったように笑うしかなかった。そんな時に軽い二回のノックが園長室に鳴り響いた。

「はい。どうぞ」

「失礼しま・・・あ」

「やあ」

 そこには、一枚の薄い紙を持って驚きのあまり空いた右手で口元を抑える真由美がいた。今日みたいな事はそう珍しい事ではないのだが、彼女は不意というものに対してとても弱かった。彼女の周りだけ時間が止まったようで、僕は少しだけ罪悪感にかられたりもする。

「留守電を聞いてね。来ちゃった」

「でも、明日って」

 真由美は妙なところで遠慮するところがあった。二人とも自由な時間に恵まれている仕事ではないが、それでも帰宅が深夜になるようなことはなかったし、双方が職を共にする数が多くなく、終業後は自宅に直帰するという生活スタイルは彼女も僕も同じだった。そして今のような月の初旬が過ぎようとしている頃は互いが求めれば応えられるだけの時間を持てる時期だった。それなのに真由美はいつも翌日を指定した。付き合いはじめて短くも無いが、彼女がその日のうちに僕を求める事は一切無かった。それが少し悲しかったりもするのだが、それに気付いてくれてるのだろうか。

「うん。でも、声を聞いたら急に会いたくなっちゃって。これから時間空いてない?」

「私は・・・」

 おそらくは「大丈夫だけど」と答えようとしたのだろうが、先ずは手にした紙切れを園長先生に手渡すのが先だった。

「あ、すいません。今日の分です」

「はい、お疲れ様」

 そう労いつつ、園長先生はA4サイズの報告紙に目を落とす。その目線が途中で止まった。

「・・・また、遠藤君が最後だったのね」

「はい」

 和やかだった園長室の雰囲気が一気に重く、沈んだものになった。中身の無くなったグラスに入っていた氷が少し形を変えてカチャリという音を立てた。冷房が効いてるからそうは感じなかったが、やや汗ばんだ真由美の姿を見て、ああ、そういえば外は蒸し暑いんだな、と思い返した。

−4−

 遠藤哲哉という子供の名を僕が知ったのは二ヶ月ほど前になる。それも一生忘れられないような強烈な印象と共に。あの日も今日と同じような日だった。仕事から帰ると留守番電話の録音ボタンが明滅していて、同じようにこの幼稚園まで足を向けた。ただ違うのは今日ほど陽が長くなく、ほとんど同じ時刻だったにもかかわらず、薄暗くて人影を捉えるのがやっとだった、ということくらいだろうか。

 正門前で子供が水道口から伸びるホースを持っていた。時間が時間だし、子供の大半は帰宅しているはずだ。今ここに残っているのは両親の都合で迎えに来るのが遅い、ごく一部の子供である。そしてそんな子供達は一つの待ち合い部屋で暇を潰すのが常であるはずだった。ホースの先からは頼りない少量の水道水が垂れ流されている。子供はそれを眺めているようだった。右手に持たれたホースから続々と水が追い出され、それらは自身の足元で跳ねてズボンの裾を濡らしていた。ひどく寂しい光景に映った。なぜか痛烈に胸を打たれる。だからこそ、一歩も動けなかった。

「なんだよ」

 それが哲哉の僕に対する第一声だった。これで良い印象を抱くわけが無い。僕は哲哉を、その頃は名前なんて知らなかったが、無視して正門を通り過ぎようとした。ちょうど真由美が現われたのもそんな時で、今日と同じように明らかに驚いた様子だった。同じ事が何度この先あっても、おそらく彼女は慣れはしないのだろう。この時も「どうしたの?」なんて言っていた。そして「ちょっと待っててくれる?もう少しで上がりだから」と加えた上で、今まで上がれなかった原因である哲哉の下へ歩み寄る。僕はそんなやり取りを何気なく眺めていた。

「ここにいたのね。哲哉君」

 少年は応えない。正直言って、この時点でもうこの少年、哲哉に対して明確な悪い印象を抱いたのだと思う。

「さ、もう少しでお母さんがお迎えに・・・」

 その真由美の言葉を遮ったのが哲哉の重く鋭い言葉だった。

「そいつ、何?」

「・・・え?」

「そいつ」

 そう繰り返して、顎で僕を指す。冗談ではない。歳が二十も離れたガキに許される動作ではない。

「哲哉君」

 それを察した真由美が非難を込めた口調で少年に謝罪を促す。ただ、たかだか五歳だか六歳だかの少年にその意図が解るはずもない。

「先生の、知ってるヤツ?」

 「そいつ」の次は「ヤツ」だった。どちらかというと温厚な、動じない性格をしていると言う自覚はあるが、この時ばかりは内心にある黒い炎が燻り始めていた。もちろんそんな少年にどうこうもできるはずも無いが、さりげなく少年に対して睨みを効かせるくらいは仕方なかったと思う。

「え・・・と」

 付き合いはじめてすぐに気がついたことだが、真由美は予想外の質問や動作に対応できる柔軟性が無い。その分、具体的な時間やゆとりがあれば驚かされるほどに掘り下げた意見や論理詰めを見せることがあったが、これは彼女が豊かな人間関係を育めなかったこれまでに由来していた。

「カレシ?」

 真由美が困ったような表情で僕を見る。もちろん僕がそれに応えるわけにはいかないし、仮に彼女が彼の問いを否定しても仕方がないとも思った。だが、応えられなかった分の沈黙が、少年にその問いに対する答えは肯定だと示しているようなものだった。

「そっか」

 少年がそう言った瞬間だった。傍にあった水道の蛇口を捻ったと思ったら、ホースの先をそのまま僕に向けた。

「て、哲哉君ッ!!」

「うわっ!」

 夥しい量の水が浴びせられる。ホースの先を圧しているらしく、尋常じゃない水圧で襲い掛かってきた。瞬時にしてずぶ濡れになった僕は溜まらず大きな玄関をくぐった。背後からは真由美が少年の名を呼ぶ大きな声が響いてくる。

「どうした・・・きゃあっ!」

 そこにいたのは真由美の声を聞きつけたらしい園長先生だった。

「こんばんわ・・・はは」

 もう笑うしかなかった。季節は春だとはいえ、この時間に水浴びなど望む者はいない。

「こんばんわ。な、何があったの?」

 こんな時でも挨拶を忘れないのはさすがだな、と思いつつ、首を回して目線だけを後ろに寄越す。男女の違いがあるとはいえさすがに敵わないらしく、真由美に首根っこを掴まれた少年と目が合った。彼はあからさまな、隠さない敵意を僕にぶつける。

「やんちゃなんだから」

 そう言って園長先生は笑った。僕にとっては理不尽極まりない状況なのだが、すぐにその理由を察する事が出来た。

「まあ、好きな人に恋人がいたら、ねぇ」

 そう言って園長先生は困ったような笑顔を僕に向けた。

「ははは・・・」

 僕はまた笑うしかなかった。

−5−

 その後も剥き出しの敵意は僕を容赦なく痛めつけた。出逢えば睨みつけられ、時には背後から蹴られ、下手をすると遊戯用の積み木が飛んできたときもあった。その時はさすがに真由美もはじめて見るような剣幕で叱り付けたために、それ以降武器攻撃はなくなったが、最低週に一回。多い時には週に数回顔を出す僕が、たまらなく憎かったらしい。ただ、そんな中ちょっとした疑問を抱いた。

 僕が幼稚園を訪れるのは決まって遅い時間である。遅いとはいっても幼稚園にとって遅い時間なのだが、僕の仕事帰りだったりするから午後の六時とか七時とか、そんな時間なのだ。だが、ほとんど必ずといっていいほど少年はいた。言い換えれば、少年以外は大抵いなかった。

「ご両親が・・・ね」

 消え入りそうな口調と表情で真由美が言ったのを思い出す。それが遠藤哲哉という少年の背景だった。おそらく、これは想像するしかないし、少年は答えもしないだろうが、安心して自らを見せることが出来るのは担当である真由美だけではないか。共にする時間が明らかに両親よりも圧倒的に多い真由美は、両親を除くと唯一心を許せる存在ではなかったか。聞けば少年は他の子供達とも仲が良いとは言えないらしい。孤立しているわけではないが、やはり普通に夕方までに迎えが来る他の子供達とは、根底として相成れない部分があるのだろう。それくらいは容易く想像できた。

 以前、少年の母親という人物を見た事がある。今日とほとんど変わらない日に、偶然トイレの帰りに見かけたのだ。綺麗に着こなしたグレーのスーツに僕でも知ってる高級外車。カッ、カッ、というヒールの甲高い音と共に現われた時に、僕は素直に少年に対して同情を抱いた。母親が、これはもちろん父親も同じだが、仕事に充てる分、少年は確実に、何かを失っていく。それも取り返しのつかない何かを。

 真由美に簡単な会釈をしただけで、少年の手を引くことも無く、母親は車に乗るように促した。真由美が頭を下げる中、僕は低いうなりを挙げながら走り去っていく車を眺めていた。何も言えなかった。毎日がこれでは、少年が可哀想だと、そう思った。少年の背中が、見つめるだけで消え入りそうなくらい頼りなく、先ほどの憎らしいほどの強気な面影は微塵も無かった。一陣の風でさえ、彼をどこかに吹き飛ばしてしまうのではないか。夕暮れを過ぎた空に、ただ今だけは。僕が少年を見つめているこの時だけでいい。大人しく彼を見守っていてほしいと願ったくらいだった。

 その日以降、僕は何をされても、靴を隠されても、髪の毛を引っ張られても、以前にはあった黒く蠢く感情は一切微動だにしなかった。その感情ですら、少年に対してどう接していいものか考えあぐねている。そうとも取れた。当の少年はといえば、僕と真由美が二人でいると必ず現われた。そして手を伸ばせば彼女に触れられる位置に陣取っていた。それは週のほとんど大半で、五日間全て、夕暮れ以降の母親を待つ事も珍しくなかった。

 僕がはじめて少年の母親を見て以降、少年が僕に辛く当たる理由は単なる嫉妬だけではないのではないかと考えはじめた。つまり、その対象が偶然真由美なだけであって、彼にとっては女性でなくてもよかったはずだ。保母ではなく、保父であっても、同じ結果なのだろう。飢えているのだ、愛情そのものに。おそらく少年は愛情という感情に気付いてはいない。本来両親から与えられるべき土壌が、彼の場合同年代の少年、少女に比べてほとんど成熟されていない。足を踏み込めばそのままズブズブとまるで底なし沼に落ちるかのように埋没してしまう。そんな危うさがあった。

「家でいるのとここにいるのと、どちらが楽しい?」

 待合部屋で聞いた事がある。そう難しい問いではなかったはずだ。すぐにでも答えが返ってくる、例えそれが「お前に関係ないよ」というようなものでも、だ。だが、少年は口を噤んだ。迷っているのではない。すでに出されている答えを口に出すのが辛い。そんな風だった。少年の視線は僕の足元で落ち着き無く浮遊していた。桜の季節から緑の季節へ移り変わろうかというあの時期の空気は、といってもたかだか一ヶ月ほど前なだけだが、とても心地良いものだったのに、この時の待合部屋だけはまるで何か凍てついたような雰囲気だった。とても五月のものとは思えないほどに。

 カラカラ、と静まり返った部屋で唯一音を立てているのは一匹のハムスターだった。あの運動用にクルクルと回る器具を、園児達はとても気に入っているようだった。待合室のハムスターがあの器具で遊ぶのはとても珍しかったが、そのために迎えの親を待つ園児達には格好の興味の的だった。そんなハムスターが、これはタイミングが良いのか悪いのか微妙なところだったが、カラカラと、本当に情けなくなるような音を立てて回っていた。

「何でもない。悪かった」

 僕がそう言った瞬間だった。これまで刺々しい憎しみを込めた瞳は見慣れていたが、この時の少年の瞳は、それらのどれともかけ離れていた。それも悪いものに。直感的に「しまった」と思った。すぐになぜかは解らなかったが、傷つけた、と感じたのだ。それまでの少年の目線は敵意止まりだった。真由美を挟んで僕をライバル視していたて敵意だ。だが、この時の少年の目線は、敵意どころではない、それは言うなれば悪意だった。

「何が悪いんだよ」

「・・・え」

 僕は、怯えていた。少年に怯えていた。

「何が悪いんだ!」

「・・・」

「どうして謝るんだ!」

 矢継ぎ早に投げかけられる悪意の洪水に、あの時僕は情けない事に震えていた。

「謝るなよ!謝らないでくれよ!」

 そう言って、彼は溢れ出しそうな涙を懸命に堪えていた。僕は愚かだった。何も考えずに口にした言葉で、彼を傷つけた。彼の最も触れてほしくない部分に僕は土足で踏み入り、荒らし回った。それはどんな強盗よりも性質の悪い、彼にしてみれば立派な犯罪者だった。

「すまない」

 どう詫びていいのか解らなかった。

「だから・・・!」

「いや。これは軽はずみな質問をしたことに対するごめんなさい、だ」

 少年は何も言わなかった。

「いつかちゃんとしたお詫びをする。本当に、すまなかった」

 少年は駆けて行った。それと同時に事務室での書類仕事が終わった真由美が顔を出す。

「哲哉君、どうしたの?走って行って・・・」

 僕は真由美に向ける顔が無かった。情けない。消えて無くなりたい気分だった。それでも何とか経緯を説明する。真由美は何も言わずに僕の肩に手を置いた。僕が辛い時や哀しんでいる時に必ず彼女は僕の肩に手を置いた。一度その理由を聞くと、「私は、上手な言葉で励ましたりする事が苦手だから」、と言った。それは真由美らしい、言葉よりもそれ以外の何かで疎通を図る事の多い彼女らしい、僕にって最高の励ましだった。

−6−

「ところで」

 園長先生は真由美から受け取った報告紙をバインダーに閉じながら、残っていない麦茶を啜った。テーブルに置かれたグラスがまたカチャン、という音を立て、僕はそれだけで涼しくなれるくらい、園長室にいた。一瞬遠まわしに「帰れ」と言われてるのかな、そういえば真由美も同席して何気なく世間話に花を咲かせていたけど、そろそろお暇するときかな、などと考えついた僕に、園長先生は言葉を続けた。

「式のお話は、決まったの?」

「あ・・・」

 僕と真由美の事は園長先生はもちろん、他の保母の方も全員が知る事だった。結婚という二文字も、僕達の中では結論としてまとまっていたし、真由美から正式な返事も貰っていた。桜が咲き始めるかどうか、という三ヶ月前に、僕は改めて彼女を人生の伴にしたいという思いを彼女に告げた。真由美は柔らかく微笑んでコクリと頷くだけだったけれど、僕にはそれで充分だった。あの時、僕の部屋で僕達は、一つの未来を共有した。

 だが、数日後真由美が明らかにそれと解る困った表情で僕の部屋を訪ねてきた。前日の電話の口調から芳しくない用件だとは予想がついたが、彼女の話した内容はいくつか予想した案件のどれにも当てはまらなかった。

「園長先生がね、式を挙げなさいって」

「式?って、結婚式、だよね」

「そう・・・」

 僕と真由美には不思議な共通点がいくつかある。その一つが極端に親類縁者が少ない、ということだ。少ないなどという数ではない。僕には親はいない。両親の一人息子として育った僕は幼い頃に父親を事故で亡くした。だが、経済的には楽ではなかったはずだが母は一人で、僕を完璧に一人前の男として育て上げてくれた。そう自負している。でないと、高校を卒業するのと同時に、それを待っていたかのように、糸の切れた人形のように病に伏せ、そのまま逝った母に申し訳が立たないからだ。葬儀は、もちろん喪主は一応形だけ僕が務めたが、そのほとんどは葬儀屋が行った。

 真っ白な、カサカサの骨の感触は、今でも手に残っている。一つ目の骨の欠片を取り上げた時、ああ、僕の母はいないんだな、と実感した。母親について涙を流したのは後にも先にもただその一回だけだった。母と二人で過ごしたアパートは引き払い、卒業後、アルバイトから正式に雇い入れてくれるという井上洋菓子店の店長に保証人になってもらい、今の部屋を借りた。葬儀の時、母の親族は誰一人として来なかった。あまり過去を話したがらない人だったから、おそらくは僕の知らない所で、子には知られたくない何かがあったのだと思う。葬儀はものすごく簡素に、あっけなく終わった。

 真由美の方も母子家庭なのは同じだったが、僕と違うのは彼女には妹がいる事だった。二つ下の彼女の妹は二年前に姉よりも早く結婚し、今では隣の県で主婦をやっているらしい。一度偶然に見かけた事があるが、あまり似ているとは思えなかった。それを真由美は「家庭に入ると変わるみたい」と笑って見せた。彼女達の母親は健在だが、その母親もすでに父とは違う男性と人生を歩んでおり、ここ数年連絡を取り合っていなかったという。

 妹の結婚式の際、母親は式への参加を拒んだのだという。その理由を聞いたとき、真由美は目を伏せ、俯いたまましばらく顔を上げなかった。それ以上聞くことは出来なかったが、彼女の表情から口にしたくないという事だけはすぐに理解できた。そこから、何となくではあるが僕なりの結論は出すことが出来た。それを確認する事はずっと出来ないかもしれないが、それでも構わなかった。

 妹に僕とのことを相談すると、もちろん真由美と僕の意志が最優先だが、特に式は挙げなくても良いのでは、と言ってくれたらしい。それを後ろ盾に彼女は式は挙げず、入籍だけ済ませることにしたいと、そう言った。僕もすでに報告する親族は誰一人としていない以上、それに否定する理由は無かった。だが、それに真っ向から反対した二人の人物がいた。園長先生と、井上店長である。

 古風な、といってしまえばそれまでかもしれないが、二人は頑なに式を挙げるように僕達を説得した。理由は様々だったが、僕達は二人の心遣いが嬉しかった。「あなたたちの晴れ姿をお天道様にも見せないといけないのよ」なんて園長先生が言ってくれた時には、なぜか忘れかけていた母親の温かさを思い出して思わず涙が溢れそうになった。僕達は、それだけで幸せになれた。祝福される事が遠い昔で止まってしまっている僕達には、それだけでも充分に式の代わりになるのだが、二人はやはり納得してくれなかった。

 式を挙げない理由は単純に列席してもらえるであろう人数が極端に少ないからだが、園長先生は式費用は私個人が持つ、とまで言い出した。まさかそんなことをしてもらうわけにはいかない以上、僕たちも式を挙げないという路線に強行にならざるを得なかった。そして、今日に至っている。

 正直に言うと、僕はどちらでも構わない。真由美は、どちらかと言うと明確に式を挙げたくない、という意志を持っているように見えた。

−7−

 園長先生もあまりしつこく促すのは好きではないらしく、ここ二ヶ月、思い出したように式の話題を持ち出すようにしているようだった。今日もそんな「思い出したように」式の話題を持ち出したのだが、「ちょっと考えたんだけど」と前置きして、園長先生は言った。

「式ね。うちで挙げてはどうかしら」

 僕も真由美も、一瞬園長先生が何を言っているのか解らなかった。

「うち、というのは」

「もちろん、この園内でよ」

 さすがに真由美も微動だにできないくらい驚いているようだった。

「式を挙げるなら、やっぱり仕事の関係上、比較的落ち着ける夏場。八月がいいと思ったんだけどね」

 そう言って園長先生は溜息をついた。それは真由美も言っていた。もし式を挙げる事になったら八月しかないだろう、と。

「でもね、八月中の吉日はもうどこもいっぱいらしいのよ」

 「だったら」、と園長先生は続けた。

「余計な手間とか要らない分、うちでやってみてはどうかな、と思ったのよ」

「そんな・・・これ以上園長に迷惑をかけるわけには」

「迷惑なんかじゃないの。むしろ歓迎するわ。急だけど今月の最後の日曜日が吉日でね、そうするとジューン・ブライドよ」

 また急な話だった。今月といってもあと半月程度しかない。式を挙げるかどうかも結論を出せない僕達にとってはまさに青天の霹靂もいいところだった。それにもし園内で挙げるにしても、あのウエディング・ドレスの・・・いや、そもそも真由美は和式か洋式どちらを選ぶのだろう。和式となるとあの大きな兜みたいなのを頭につけるんだろうか、そんなことを考えていると、真由美と目が合った。やはり彼女もどう答えていいか解らない様子だった。

「でも、色々と準備が・・・」

「ドレスとか?」

 園長先生はそこでニヤリと笑ったような気がした。その質問を待ってました、とでも言いそうな、そんな笑顔だった。

「ドレスは手配済みよ」

「ええ!?」

 素っ頓狂な大声をあげたのは真由美の方だった。僕の方はといえばドレスという事は洋式の方か、なんてことを考えていた。

「い、いつの間に、ですか」

「あら、この間「式を挙げるなら和式か洋式どちら?」って聞いたでしょう?」

 数秒記憶の糸を張り巡らせた真由美が目的とした答えに引っかかった糸を手繰り寄せる。そういえば、という仕草をした真由美を満足そうに見つめ、園長先生は「それでね」、と続けた。僕はもう、園長先生には敵わないような気配を感じていた。

「洋式って言ったからその日に、ね。サイズ合わせに一度は顔を出してもらわないといけないけど、充分間に合うわよ」

 園長先生の完勝だった。もう僕達に異論を挟める余地は無かった。

「一也さん」

 滅多に名前で呼んでくれない真由美もこの時ばかりはしっかりと呼んでくれた。僕達の答えも、一つだった。

「園長先生」

 僕は両膝に手をつき、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。このたび、僕と真由美がお世話になります。本当にありがとうございます」

 そう言ってから頭を上げた。園長先生はこれまで見たことが無いくらいの綺麗な笑顔で頷いてくれていた。

「ですが一つだけ」

 これは譲れないところだ。出来る限りの強い意思を込めて言わなくてはならない。

「費用は全て、僕達で賄います。その・・・ドレスの方も」

 今度は隣の真由美が強く頷く。一瞬何かを言いたげにした園長先生も、「わかったわ」と答えてくれた。僕たちが出来る事なら、必要以上に園長先生に負担をかけるわけにはいかない。園長先生がどう拒んでも、この点だけは決して譲るわけにはいかなかったし、その気も全くなかった。

「嬉しいわ。その気になってくれて」

 園長先生はまた中身の無いグラスに口をつける。氷はほとんど溶けていて、辛うじてそれと解る小指の先くらいの氷が園長先生の口内へと入っていった。そして「暑いわね」と漏らした園長先生にも、この件に関しては余裕が無かったらしい。そう思うと自然に笑みが零れた。

「真由美の花嫁姿、楽しみだな」

 そう言った僕に、「ダイエットしなくちゃダメかしら?」と真由美もおどけて見せた。

−8−

 事件はその三日後に起きた。その日事情を説明して井上店長に有給を貰った僕は、式の進行などの具体的な内容を煮詰めるために「たいよう幼稚園」を訪れた。昼下がりのこの時間、園児達はお昼寝の時間のはずだった。それを見計らってやって来たのだが、正門を通った右手の奥。色取り取りの草花が栄を競い合う花壇の隅に、知った影があった。遠藤哲哉。あれからほとんど、まともな口は利いてもらえていない。

 僕の方も、そして少年も、おそらくどう接したものかと悩んでいた。後姿だけでそれと解る少年は、どこかいつも以上に寂しげに見えた。梅雨時とはいえ雨も少しは休暇を取るようで、だがやはりじっとしているだけで汗ばんできそうな鬱陶しい蒸し暑さは健在だった。一時でも早く園長室の冷房と、キンキンに冷えた麦茶に肖りたい、と思っていた矢先に、少年の姿を視界の端に捉えた。もしかすると、少年から滲み出る寂しげ、というよりはむしろ悲哀のようなものに捉われたのかもしれない。それくらい、少年の後姿は何か、とても大きな重く暗いものを背負っているように見受けられた。

 そんな少年の手にはプラスチック製の、おそらくは遊戯用のものだろうが、スコップを手に持っていた。薄い水色の制服に、その刺々しいまでの赤いスコップが不釣合いに映ったが、少年が振り返り、僕と目が合ったことでそんな感慨はどこかへ吹き飛んでしまった。何かを求めている瞳をしている。決してこの少年はその正体を言わないだろう。だがそれは幼い子供が耐えられるような軽い代物でもないはずだ。僕のその思いを知ってか知らずか何事も無かったかのように僕の方へと少年は歩み寄る。僕が今立っている正門を通り過ぎようとする。

「何をやってたの」

「・・・別に」

 無視されないだけまだマシだったかもしれないが、素っ気無いにもほどがあった。それも仕方ない。僕は心無い発言で少年を傷つけたのだ。まさか媚を売る必要も無かったが、真由美のことを考えると今のこの状態は改善しないといけない。出来る事なら、少年に祝ってほしいという願いもあった。それはおそらく少年にとって、心境としても、年齢としても難しいに違いないだろうが、僕も真由美も、思いは同じだった。

「お昼寝の時間だよね」

 スコップには土が付いていた。そもそも、今は園児が部屋にいる時間である。

「だから、今から」

 そう言ってまるで逃げ去るように少年はそのまま僕を通り過ぎて駆けて行った。あのまま行けば少年のすみれ組の部屋だが、ちゃんとしたすみれ組の部屋の入り口は正門から入り、廊下の突き当りを左に曲がる必要がある。つまり少年は裏手、外観に面した一面のガラス戸を黙って抜け出してきたという事になる。そんな時にその突き当りで真由美を見かけた。書類を手にしているという事はこの時間を利用して事務室に篭っていたのだろう。

「あ、真由美」

「いらっしゃい。園長先生が園長室でお待ちよ」

「ああ。今行く。でも、ちょっと」

「どうしたの?」

 そして僕は今の経緯を説明する。

「寝たふり、してたんだ」

 二人ともまさか驚かされるような悪事を働いているとも思えないから、「もう」とだけ呟くと真由美はそのまますみれ組の部屋へと消えていった。あの部屋では少年が何食わぬ顔で寝入った振りをしているのだろう。それを知った彼女も、おそらく何も言わずに他の園児達と同じように安らかに、そして愛らしく寝入る面々を満足そうに眺めているはずだ。そして僕も園長室をノックした。

「どうしたの?」

 異変はその約二時間後に起こった。突然、待合室から園児たち複数の、悲鳴にも似た泣き声が響き渡ったのである。

「それが・・・」

 真由美も他の保育士の数名と同じように、困惑した、疲れ果てた顔をしていた。通常、園児の大半はそれぞれの部屋で親の迎えを待つ。そして一部の、哲哉のような一定時間以上遅れるような親を持つ園児は待合室で時間を潰す事になっている。その四十畳ほどの広い洋間でただ迎えを待つ園児たちの寵愛を一手に引き受け、彼らの寂しさと虚しさを紛らわせてきた、ある意味では主とも言えるハムスターが、姿を消したというのだ。

 憮然とした表情で待合室の中央に仁王立ちした哲哉がそこにはいた。円を描くように少年を囲む六人の園児たち。彼らは強く責める視線で哲哉を凝視していたが、そのほとんどには泣いた痕跡がみられる。泣き疲れた後に、思い出したようにその悲しみの原因を睨みつけているようだった。

「哲哉君が、チョイを逃がしちゃったって」

「逃がした?」

 簡単なアルミで作られた格子の中は、主人を失って静寂に包まれていた。その性質は今この待合室を包んでいるものと変わらないのかもしれない。上下する事で開くようになっている出入口は開けられたままになっている。チョイというのはハムスターの名で、園児たちが触れるときに「ちょいちょい」とからかうように言い合っていたことからその呼び名がついたらしい。

「どうして」

 当然の疑問のはずだった。真由美たちと同様、悲しみに暮れる園児たちにとっても、その思いは同じだったはずだ。だが。

「答えてくれないんです」

 真由美の同僚である田坂が言う。部外者の僕は、真由美との関係も含めてこの幼稚園では知られた存在なのでこの場にいる事に関しては不審がられたりすることはないが、園児たちにとってはそういうわけにはいかないはずだ。しかし、そんな僕の存在に気付いても視線すら届いてこない。それほど哲哉が引き起こしたという事件が彼らにとって非常に深刻なものであり、許しがたいものであることが読み取れた。

「答えろよっ」

 園児の中の一人が叫んだ。握った拳がわなわなとゆれている。

「そうよっ。どうしてそんなことしたのっ」

 気丈な、というべきだろうか。女の子も哲哉を睨みつける。

「ねぇ、哲哉君。本当なの?」

 真由美の言葉に、ようやく哲哉が表情を向ける。僕の隣にいる真由美を見つめるという事は僕にも少年の表情が見て取れるのだが、その瞬間に僕は確信できた。少年は、嘘をついている。根拠は無い。だが確信がある。少年は、今回の件のどこかで、あるいは全てかは解らないが、嘘を言っている。ゆらりと濁った瞳をしていた。まだ小学校にすら通っていない少年である。その瞳は尋常ではない。

「本当だよ」

 少年はそれだけを繰り返した。その先が無い。つまり、嘘がその先にあった。そして、思い出す。赤いスコップを持った少年の姿を。土の付いたそのスコップを。少年は何も言わなかった。何も、言えなかった。あくまでも少年はチョイを「逃がした」と言い張るだろう。それが、彼の優しさだった。

「ちょっ・・・」

 とりあえず場をなだめようと一歩踏み出した次の瞬間だった。

「どうかなさったんですか」

 僕は後悔した。どうしてあと一分でいい。彼の優しさに気付いてあげられなかったのか。待合室に現われたその人影は、意外な人物だった。

「お母さん」

「遠藤さん・・・」

 本来ならばあと三時間でもしないとやってこない少年の母親が、そこに立っていた。

−9−

 母親は有無を言わせなかった。事情を説明したのは真由美で、少年に配慮して待合室の廊下に出て経緯を話したのだが、ものすごい剣幕で戻ってきたかと思うと怖じる少年の頭を掴み、そのまま強引に下げさせた。

「謝りなさい!」

 少年は今の今まで非を認めても頭は下げなかった。下げる必要が無かったからだ。いや、他の園児たちからすればそれこそ頭に来る原因の一つだっただろうが、その一線が少年のプライドだったのだろう。謝るべきなのかもしれないが、謝る必要は無い。僕が少年の立場なら頭は下げた。そうすることでとりあえず場は落着する。真実は自分だけが知っていればいい。それが辛いものならなおさらだ。そうすることが強さでもあり、少年が持つ優しさでもあるが、その強さを持てないのが子供であり、そのプライドを譲れないのが子供だった。

 少年にとっては屈辱だったに違いない。母親が迎えに来るまでにはどういう形であれ、こういった騒動は収まっていたはずだった。少年にとって予定外だった母親の早い迎えが、この状況を一層悲壮なものにさせた。

「都合がついて早く来てみれば。いつもこんなゴタゴタを起こしているの!?」

 謂れの無い疑念だっただろう。さぞかし悔しかったに違いない。今なら、胸の奥にしまいこんだ事実を吐露する事ですべての悪意から解放される。だが少年はそれを潔しとしなかった。ただ首を振り続けることの強さと辛さが僕の胸を打った。この少年は、強く、優しい。紛れも無い、良い男だった。

「ちょっと待ってください」

 自然と足が踏み出ていた。全ての視線が僕の首から上に集約されるのが感じ取れた。

「なんですか、あなた」

「どうして、もっと自分の息子の言う事を聞いてあげないんですか」

 守ってやらないといけなかった。

「なんなんですか、あなた」

 語気を荒めた母親が、明らかな不審の瞳で僕を睨む。そうか、この瞳で責められたのか。それも、この何倍の数で。

「やって来て早々、それはあんまりじゃないですか」

「だから、何ですか、あなたは!」

 静謐に包まれた待合室で、僕は少年の心を知ったと思いたかった。

「僕の事はどうでもいい」

 たった数メートルの距離を詰めるだけで部屋の空気がより緊張の度合いを増すのが解る。だが、そんなことは関係なかった。

「嘘をついてるよな」

 膝を折り、目線の高さを少年のそれと合わせる。この濁った目をそのままにしておくわけにはいかない。いずれ大人になるにつけその目は多かれ少なかれ濁っていくものだ。だがそれをこの年で経験させるには可哀想過ぎた。キレイゴトでも、少年は少年のままでいて欲しいと、そう思った。

「どうして・・・」

 消え入りそうな少年の声も、他の音が消えたこの部屋では全員に聞き取れただろう。

「僕も、同じ事をするから」

 少年は俯いたまま答えなかった。落ちようとする涙を懸命に堪えていた。

「でも、一人で背負い込むものじゃない」

 少年の持つ優しさは、時として諸刃の剣になる。気付かれなければ、それは周りの人間にとって悲劇となる。現に今の状況がそうなのだ。

「だから、話してくれるか」

「お前なんか、嫌いなのに・・・」

 語尾の続きを聞きたかった。震える声を隠そうと、少年は気の強さを示す。

「それとも、僕が話すか?」

 少年は少しだけ考える仕草をして、しかしすぐに首を振った。そして、ポツリポツリと語りはじめた。

「死んだ・・・?チョイが?」

 少年に詰め寄った園児の一人の、自らで噛み砕けなかった言葉が、不意に口から漏れた。それが、全てだった。

−10−

 来た時には止んでいた雨が、いつのまにか降り出していた。多分、このどんよりした空が少年の流せなかった涙を吸い、今になって落としたのだと、そう言ったら笑われるのだろう。それでも僕は決して笑わない人間を二人知っている。真由美と、遠藤哲哉だ。

「そっか」

 真由美が少年の、いや彼の頭をそっと撫でる。死を告げるのならば、いっそ不慮にいなくなってしまったことにした方が、皆の心を傷は小さくて済む。それが、偶然登園時に冷たくなったチョイの骸を発見してしまった彼なりの思いやりだったのだ。花壇の隅で掘り返された跡の残る土を前に、残っていた園児たちは全員、手を合わせていた。雨脚は強くは無いものの、この場に長くいる事は憚られるのではないかと思ったが、園児たちはおかまいないらしい。ただひたすら目を閉じ、墓標も無い花壇に向かい、手を合わせていた。黙した心の内では不器用な優しさに気付かずに傷つけてしまった一人の少年に詫びていたのかもしれない。そう思わせるほど、彼らは長い間、そうしていた。

「どうして」

「ん?」

「どうして、解ったんだ」

 年相応には思えない口ぶりは、おそらく彼の家庭事情によるものだろう。他の園児たちとは比べるべくも無いほど、彼は大人びていて、冷たく、素っ気無く、でも真由美には素直で、それでいて優しく、何もかもに不器用だった。

「なんとなく、かな」

「嘘だ。あの時見たんだな」

「それは違うよ」

 嘘を言ってるわけではなかった。確かにあの時赤いスコップを持った彼の姿が印象として残っており、それがキッカケとなったのは間違いない。だが、あの待合室の中央で映った彼の姿は、いや、瞳は、何かを隠していた。嘘だと直感したかどうかは今となっては解らない。ただ、違和感はあった。

「なあ」

 僕はとんでもないことを思いついた。とんでもないけど、素晴らしいことに。だから何も考えずに彼に話し掛けた。

「なんだよ」

「僕たちの、子供にならないか」

 冗談にしか聞こえないセリフだったと思う。それでも彼は硬直した。身を一瞬だけ震わせて、瞳を見開いた。

「な、何言ってんだ」

「カッコいいな」

「な、何を・・・」

「カッコいいよ、お前」

 思ったことを、ただ口にしただけだった。だからそれだけ、彼の心を打ったのかもしれない。

「でも、先生は・・・」

 僕と彼の視線は真由美を捉えた。彼女はこちらを振り返ると柔らかく微笑んで両膝を折り、さっき僕がしたように目線を彼に合わす。そして、何かを言う前に優しく彼の頭を撫でた。それは「上手な言葉で励ますのが苦手な」彼女の、とっておきの仕草だった。

「お前みたいな強くて優しい子供がいると自慢になるよ」

 同意するように真由美も頷く。彼はどう反応していいか解らないようだった。

「本当?」

 嬉しいような、困るような、そんな表情で僕を見つめ返す彼を見て、おかしなことだがようやく子供らしい彼を見つけたと思った。

「本当」

「マジ?」

「マジ」

「嘘ついてないか?」

「ついてない」

「お母さんも、そう思ってると思う?」

 咄嗟には答えられなかった。あの母親は今も待合室で園長先生と何かを話しているようだった。あのまま自分の息子に何を言うでもなく黙したままだった母親を思い返すと、すぐに答えることは出来なかった。本音を言えば、思ってないかもしれない。僕と真由美の方が、よほど彼を知っていると自負できる。だからこそ、冗談ではなく僕と真由美が結婚したら、彼のような子供が欲しいと、そう思っただけのことだった。

「うん。きっとね」

 答えあぐねている僕に助け舟を出す形で真由美が答えた。

「ありがとう」

 いつからか彼の声が涙声に近くなっていた。搾り出すようにそう言った彼の頭を、僕は真由美と同じように撫でてやる。それが彼の涙のダムを決壊させたのか、声を殺したままで彼は右腕を充てて男泣きに泣いた。カッコいいと、僕は本当にそう思った。

−11−

 僕が真由美と結婚する、ということを彼に報告したのはその翌日だった。僕が仕事帰りに幼稚園を訪れてみると、待合室には一人で絵本を眺めている彼がいた。そこで僕は真由美と一緒に、彼一人に、まるで親にそうするかのように真摯に伝えた。ただ、祝って欲しかった。彼にだけは。

「僕たち、結婚する事になった」

 彼は特に驚いた様子も無く、ただ一回だけ、静かに頷いた。もしかすると恋人であると言う事と結婚が彼にとってイコールだったのかもしれないが、拍子抜けするほど、その反応は穏やかなものだった。

「おめでとうって、言ってくれる?」

「どうして僕に」

 小さな声だった。酷な話だとは思う。でも、僕の、真由美の我儘だとしても、彼にだけは認めてもらいたい。祝ってもらいたい。

「みんなにおめでとう、って言ってもらわないと、僕たちは結婚できないんだ」

 やはり彼は答えなかった。僕の言ったこの言葉に対して、彼が「だったら言わない」とでも答えたらどうするつもりだったのか。思い返しても答えに行き着かないと言う事は、何も考えていなかったらしい。苦笑するしかないが、これも一種のプロポーズみたいなものだ。

「僕と、真由美先生は結婚できないの」

 年齢なんて関係なく、彼も一人の男だった。だから真由美も、一人の男に対して、答えたのだろう。

「ごめんね。私は、この人が大好きだから」

「僕が真由美先生を好きな以上に?」

「それ以上に」

「絶対?」

「絶対」

「間違いなく?」

「間違いなく」

 押し黙ってしまった彼に、今度は真由美の方から彼に言った。

「でも、私がこの人を好きな以上に・・・」

 ああ、と僕は思い当たった。こういう真由美の優しさに僕は惚れたのだと思った。

「以上に、なに?」

「哲哉君のお母さんが、哲哉君を愛してるわ」

 少し、間があった。待合室はいつものようにしん、と静まり返っていた。主を失ったハムスターの跡形は、たった一日で無くなっていた。

「うん。わかった」

 彼は年相応の愛らしい笑顔とともに、僕と真由美が一番望んでいた言葉を言ってくれた。

「結婚、おめでとう」

−12−

 式といっても、あまり凝った事は行わないことにした。愛の宣誓もなければ披露宴なんかももちろん無い。園長先生の前で指輪を交換して、キスをして、なんと待合室でちょっとした宴会を行うだけで、そこにはすでに大きなウエディング・ケーキが聳えていた。井上店長の自信作で、給料から差っ引いておくと笑っていた。今日は井上洋菓子店も臨時休業で、店長は今正門から建物を挟んだ裏手にある小さなグラウンドにいるはずだ。園長先生も、ぼくたち双方の職場の何人かも、そして大勢の園児たちも。これだけの大人数に祝ってもらえるのは本当に嬉しかった。親兄弟のいない僕にとって、誰かに何かを祝ってもらえるというのはほとんど無い。だから余計に、感慨深かった。

 僕たちは幸福の渦にいた。ここはグラウンドを見渡せる二階の廊下なのだけれど、見下ろすと僕たちのために集まってくれた多くの人々がいる。二人でこの光景を、しばらく眺めていた。着慣れないタキシードが上手く映えるかどうか怪しいところだったが、真由美の白く眩しいウエディング・ドレスもまた、彼女を祝ってくれていた。僕たちは、幸福の渦にいた。

「なんだろう・・・」

 すでに涙声だった真由美が、口元を抑えながら呟いた。そして「信じられない」という言葉を言ったが、それは今日覚えているだけで四回目だ。彼女も天涯孤独、という表現は大袈裟だが、僕と同じく長い間一人を生きてきた。一人で生きていくことと一人を生きていくことは根本から違う。

「行こうか」

 この渦を表現できただろうか。沸き出でて汲んでも汲んでも底の尽きない幸福を、僕は彼女と共にできていただろうか。彼女の手をとって、僕たちはゆっくりと噛み締めるように、赤い絨毯が敷かれた階段を降り、この一歩一歩を永遠に代えるように踏みしめた。俯きながら手を取り、僕と歩みをともにしている真由美の瞼からは、すでに涙が落ちていた。階段を降り、そのまま正面に見えた正門に背を向けると、奥にはグラウンドが広がっている。敷かれた真っ赤な絨毯はそのまま真っ直ぐグラウンドを横断し、その先には井上店長と、店長の旧知の仲である園長先生の二人がいる。そしてその赤い絨毯の左右には、今日という日の主役である僕たちを待ち構えるように、二十人に近い園児たちとその保護者たちがいた。

「どうしよう」

「どうしたの?」

「私、すごく幸せ」

 彼女はこの二十数年間、おそらく口にしたことの無かったであろう言葉を口にした。僕はそれだけで幸せになれた。彼女の幸せの因になり得ている。それが僕の幸せなのかもしれなかった。この光景を決して忘れないようにと、僕は一度くるりと全天を見渡した。その時、僕は信じられないものを見た。夢に違いない。幻に違いない。でも、夢でも幻でもあって欲しくない。また、そういう確信を持てる光景を。

 グラウンドに背を向けたら僕がいた。真由美もいた。あれは、高校生くらいだろうか、哲哉もいた。僕と真由美は少し年を重ねて見えた。十年程度だろうか。だとしたら彼も高校生くらいになっている。映画の回想シーンのようにどこかぼやけていたが、ハッキリと見える。僕と真由美は手を取り合って、今と同じように笑ってくれている。自分で言うのも何だが上手に年を重ねているように見えた。彼は、この時の彼なら真由美を取られてしまうのではないかと危惧するくらい精悍な男性に成長していた。十年は、これほどのものなのか。彼があと十年年を重ねれば僕と変わらない年齢になる。僕と真由美と同じように笑っているように見える彼を見て、僕はなんて幸せ者なんだろうと思った。胸から熱いものが込み上がってくる。

「僕も、すごく幸せだ。たまらないよ」

 幻を後ろにして僕たちは歩む。今を歩んで幻を現実とするために。

「行きましょう?」

 夢を夢のままにしないために、僕たちは歩いてゆく。握りしめた手に少しだけ力が入ったと思ったら、同じだけ握り返されてきたのも同時だった。一歩歩くごとに歓迎してくれる園児たちの目が輝くのが解る。出来るならば、望むなら、彼らにも僕たちと同じ幸せを。十年経っても、百年経っても今のこの気持ちを思い返せるような幸せに満ちた時を経験して欲しい。そして、僕たちは目に見える渦の中に、グラウンドに一歩を踏み出した。

「おめでとうっ!」

「きれーい!」

 様々な祝辞や賛辞、そして歓迎と祝福の言葉に包まれながら僕たちは赤い絨毯を踏みしめた。たった数十メートルのものなのに、その一歩一歩が今までの僕たちを思い返させて、これからの僕たちに思いを馳せさせて、少し時間がかかってしまったみたいだ。待ち構える井上店長と園長先生の前に立って、深々と頭を垂れた。本当にこの二人には感謝してもしきれないくらいお世話になったから。二人の満面の笑みがとても嬉しかった。

「おめでとう」

「ありがとうごぜいます」

 僕たちの言葉は同時だった。

「幸せになりなさいよ」

「・・・はい」

 賑やかなグラウンドはまるでそこだけの空間が切り離されたのではと思えるほど、言葉で言うなら夢見心地の時間だった。

−epilogue−

 待合室はそれはすごい騒ぎだった。園児たちにとっては少し変わったお祭りと思えたらしく、その辺りを走り回っては各々の保護者に頭を叩かれていた。ただ女の子は目線に真由美が入ると駆け寄って「きれい」や「いいなあ」を繰り返し、「少しだけ着させて?」とせがんだ子にはさすがに真由美も困ったような笑みを返すしかなかった。僕がそれぞれの来賓に挨拶を終えると、今度は真由美が主役の位置を離れ、僕がそうしたように挨拶に向かった。それを見計らってか、彼が僕の隣に座って手にしていたオレンジジュースのグラスを持ち上げた。

「ん」

 すぐに乾杯を求めているのだと気付き、僕もシャンパンのグラスを持つ。カチン、と気持ちよく響いたかと思えば、少年は一気に黄色いジュースを飲み下した。グラスに半分ほど残っていたそれが空になるのを確認してテーブルに置くと、彼は言った。

「かっこいいな」

「ありがとう」

「一也さんじゃないよ」

「え、あれ?」

 あの件以降、彼の中で僕は「お前」から「一也さん」になっていた。

「なんか、こういうのって、すごいな」

「・・・ああ」

 何かを言おうとしている。でも、言い出せずにいる。そう見えた。

「僕さ」

「なに?」

「やっぱり真由美先生のことが好きだ」

 それはそうだろうと思う。大人だって、いや、大人だからなのかもしれないが、一度心から愛した人間を「はい、そうですか」と無かったことにしたりあるいは他の誰かに変えたりすることは簡単じゃないし、普通は出来る事じゃない。僕たちはそれを承知の上で彼にそれを請い、彼は叶えてくれた。

「・・・うん」

「でも、一也さんなら、いいと思ったんだ」

「ありがとう」

 それしか言えなかった。

「でも」

「でも?」

「一也さんが不甲斐なかったら、僕が真由美先生をもらう」

 彼なりの宣戦布告らしかった。遅すぎた宣戦布告。それもまたかっこいいと、僕は思った。

「そうだな。もし僕が彼女を泣かせたら、その時は・・・」

 しかし彼は僕の言葉を聞いたのか聞かなかったのか、目線を僕から真由美に向けると、「ちょっと、無さそうかもね」と漏らした。

「え、なに?」

「なんでもないよ」

 聞こえなった振りをした。

「とりあえず、十年後かな」

「十年後」

「うん。その時僕は十五。高校生になるかならないかでしょ」

「そうだね」

 あの時見た幻を思い返す。あの少年はやはり彼なのだろう。実年齢よりも少し大人びて見えた彼は、整った顔立ちとあどけなさがちょうどよくバランスされていた。あれでは学校でも人気者だろう。十年前の僕なんて吹けば飛びそうだ。

「そしたら、真由美先生も一也さんに嫌気がさしてるかもしれないじゃないか」

「結婚式の場で嫌な事言うなよ」

 笑いながら言う彼に、僕は苦笑で返すしかなかった。

「それがダメでも、もう十年経てば二十五」

「今の僕と同じ年だ」

「一生懸命勉強して、頑張ってかっこよくなって、その時は」

 彼は口ごもる。本人を目の前にして言っていいものかどうか迷っているのだろう。

「勝負するか」

「・・・え?」

「その時真由美が僕じゃなくて遠藤哲哉を選んだら、僕は負けを認めるよ」

「・・・いいの!?」

「もちろん、真由美の意思が大前提だけど」

 さっきのお返しに「君だから」とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。あの光景からすると彼は本当に脅かされそうなくらい「かっこよくなった」人間になるだろう。二十年も経てば僕は四十五。二十五の彼には負けるかもしれない。そう思うと思わず苦笑してしまう。

「男同士の約束な」

 そう言って彼は小指を差し出す。僕は黙ってその小さな小指に僕の小指を絡ませた。

「先生を、泣かすなよ」

「もちろん」

「本当に、幸せになってよね」

 そう言った彼はもうこれ以上は無いくらいの魅力的な表情で笑ってくれた。視線の向こうには真由美も、僕たちのやりとりを知ってか知らずか笑いかけてくれる。だから僕も笑った。彼らほど魅力的に笑えたかどうか少し不安だったけれど、それでも今の気持ちは笑顔でしか表せなかったから。

 ありがとうと、おめでとうが、ここにあった。そして僕たちは、その渦の中にいた。手を離すと吐き出されてしまう脆いものだったけれど、決して離さない自信があったから。ずっと離さない手はいつもここに。他の全てが目まぐるしく変動したとしても、それだけは変わらずに。

 ありがとう。そして、おめでとう。今のあなたにも、そして、いつかのあなたにも。

 

−fin−