Little Master〜時の魔女伝説〜 最終更新:2003、6/5 −41−〜−42−(第3部

〜プロローグ〜

 この安穏としたラクナマイト大陸が、都合二度にわたる魔族の侵攻を受けたことは記憶に新しい。魔界を統べる暴虐の覇王の一人ゲザガインが、その横暴たる野心と、数による圧倒的な物量作戦を用いたが、それを阻止したのが大陸一の騎士、二次侵攻の後に「雷光の騎士」と呼称される事になる、若干15歳の少年、リイム=ライクバーンであった。彼と、彼の率いる王国騎士団が、二度のゲザガインの侵攻を見事に打ち破ったのである。

−1−

 ライナーク王国の北西の位置にあるレイヤ村は、大陸でも一・二を争うほどの寒冷域だ。重みと鋭さとを孕んだ風が、容赦なくリイム達の行く手を阻んでいた。数ヶ月の一度の割合で行われる王国巡行も、この村で最後だった。かつてのゲザガインの侵攻も、ようやく人々の記憶から薄れていってくれるかのような、この地の気候とは裏腹に暖か味を持った時間が過ぎていった。かの第二次侵攻からいくつかの季節が過ぎている。ライナーク自体がそれまでと変わらないまでに復興できたのは、騎士団の活躍によってほとんど国民に被害が出なかったからに他ならなかった。

「ひー、寒いッ!何なんだよここはッ」

 溜まらずにヴァイスが叫ぶ。これで何度目だろうか。

「五月蝿いわよ。寒いのはみんな同じ。あなただけが寒いわけないじゃないでしょ?」

 タムタムがいつものように冷たくあしらう。空を見上げると、昼過ぎとは思えないような薄暗い、不安げな表情を見せていた。もしかしたら雪が降るかもしれない。そう思うと、リイムの心も少しだけ軽くなった気がした。ヴァイスにしてもこれくらいでとやかく言うような柔な人間ではない。盗賊団を率い、王国に刃を向けた人間が、軟弱なわけもなかった。また強い風が吹いた。乱れゆく髪に気を止めることもなく、スカッシュが呟く。

「雪が降る」

 相変わらずの抑揚を欠いた、注意しないと聞き取れないような細い声が、それでもパーティ全員に届いたようだった。

「本当?」

 リイムの問いかけに答えることもなく、スカッシュが空を見上げる。ヴァイスやリイムもそれに倣う。雪というよりも雨を予想させるような重い雲が一面を支配しており、そして・・・。

「おっ、言う通りだな」

 最後尾の守衛に役していたモーモーが嬉々としてその逞しい腕を空に掲げた。リイムも眼前に手を広げ、ライナークでは珍しい白い結晶を手にとった。しかしそれは形を止めることもなく、すぐに融解し、ただの水へと変わってしまった。

「わー、私雪を見るのって生まれて初めてです!」

 二箇所で留めた長い髪の尻尾に構わず、リルルも喜び勇んではしゃぎ回る。最年少である彼女は、まだやはりあどけなさを残したごく普通の少女であるが、こと琥珀に関してはタムタムに負けない才能と資質を兼ね備えていた。彼女の琥珀によってパーティが助けられる部分というのは大きな比重を示していたし、何よりも常に周囲に目を配り、精神的なバックアップも務める彼女を、リイムも内心頼りにしていた。

「シャルルもとっても喜んでます!」

 空を見上げたままリルルが言った。シャルルというのはリルルのもう一人の人格で、肉体がある程度以上の衝撃を受けると、それまでリルルだった彼女はシャルルとなり、シャルルだった彼女はリルルとなる。二重人格、というのとは別個であり、精神的にはおろか、その外見までも瞬時に変化してしまうその様は、明らかに妖精族の血が少なからず流れていることを示していた。使う琥珀の内容もその性格をガラリと変え、穏やかで柔和なリルルは補助や間接的な琥珀を、活発で勝気なシャルルは攻撃系の琥珀を使う。二人の記憶は永続的に共有されるらしく、また髪の色が変わるだけでそれ以外特に変化も見受けられない。ただ、自分でコントロールすることは不可能であるらしかった。

「今日はこの辺りでキャンプかな」

 苦味を帯びた微笑でリイムが誰に言うでもなく呟いた。

「仕方ないよね。本当ならもう少し進んでおきたかったけど、一足で帰れる距離じゃないし・・・。ちょっとここで様子を見ましょうか。スカッシュ、積もりそう?この雪」

「・・いや」

 少しの間を置いてスカッシュが答えた。もうどれくらい生きているのかは解らないが、それでもリイムやタムの何倍も生きている彼の言うことに、誰も不信を抱かなくなっていた。魔族の血を色濃く継ぐ彼は、あのゲザガインの実子である。第二次ゲザガイン侵攻の際、パーティの仲間を偽り、サンクリスタルの欠片とリチャード国王の一人娘、つまりは次期王国妃であるライム姫を奪い去った過去を持つ。色々な紆余曲折を経て現在は騎士団に籍を置く彼を、リイムは疑ったりしなかった。彼はこれから先、永遠に罪の意識に苛まれていくだろう。二次侵攻の終焉、リイムがスカッシュを打倒した時、スカッシュの眼に微かな後悔を見てとってしまったのだ。表し様の無い虚しさと、助けを求めていたスカッシュを助けることが出来なかったリイムは、当時自分を激しく非難した。確かにどうすることもできなかったのかもしれない。モーモーも数少ない同族を、躊躇いも無く葬り去った。その心中は決して一言では語ることは出来ないものだっただろう。ゲザガインの息子であり、しかし人間族の血をも受け入れることの出来た彼は、最後の最期で、リイムに救いを求めた。そしてリイムは、そのスカッシュに、刃を突き刺したのだ。

「じゃ、明日の朝一番に出立にしよう。そうすれば明日中には王宮につけるだろうから」

「ハイ」

「じゃ、二部交代で見張りを立てよう。6人だから3人づつで・・・」

「俺一人で充分だ。この辺りは特に警戒する必要はない」

 風に靡くようにスカッシュが言った。

−2−

 雪はすぐに上がった。それどころか時間をおかずに雲はその姿を隠していき、月が頭上に現れる頃には満天の星空を演出するまでになっていた。独特の長刀を傍らに、そしてこの辺りで一番太い樹を背に、スカッシュは一人、月を見上げていた。血の分量としては人間族としても、魔族としても同等である彼ではあったが、より色濃く表れているのは明らかに人よりも魔の血であった。そんな彼は、それほど睡眠を取る必要性がない。もちろん不眠不休で長くいられるわけではないが、それでも2、3日なら食事や睡眠がなくてもそれほど体調的な不遇には至らない。月には不思議な力があった。いや、それはおそらく感覚的なもので、気のせいかもしれない。それでもスカッシュはどちらかというと夜の方が好ましかった。夜ならば誰の顔を見なくてもいい。その表情を自分の目に投影することもない。今の自分の現状は、明らかに常軌を逸したものだということは、自身も解っている。かつてスカッシュは何の感慨もなく彼等を裏切った。この大陸の覇権に興味があったわけではない。ただ、父に認めて欲しかった。純粋な魔族ではない彼は、魔界でも微妙な地位にいた。ゲザガインの息子、しかしその血には薄汚れた人間のものが混じっている。それでも彼の実力が魔界に響き渡る頃には、誰も何も言わなくなっていた。ただ、強烈な劣等感と、そして焦燥感だけは消えることがなかったあの頃―――。

 木々がざわめいた。この冷たい風だけは魔界のものとよく似ていた。故郷として思いが募るわけではない。かの地に残したものなど何もない。ただ、気になることが一つ。父、いや、あの仇敵ゲザガインは、おそらく死んではいまい。純粋な魔族であるゲザガインは基本的に不老不死だ。もちろんいくつかの方法で完全に葬ることも可能だが、それは並大抵のことではない。純魔族であることは、それほど強力な力を持つ証でもあった。同様に純粋な獣族は肉体に圧倒的なパワーを秘める。その力はまさに究極で、身体から発する闘気だけで堅固な岩石をも打ち砕くという。妖精族は、もうすでに純粋な妖精族は滅んだとされているが、彼等もまた同様に、想像を絶する能力を秘めていたと伝えられている。スカッシュが生まれた頃にはすでに滅びの一途をたどっていたこの種族は、今現在その混血ですら希有な存在となっていた。だが、人間族、人だけは特に何の能力も持たない。だが、外的にはそうでも人には内面的で目を見張る可能性を秘めていた。スカッシュが当時得ることが出来ず、そして今渇望してやまない、「心」がそれだ。

「人・・・か」

 珍しく感傷的になっているようだった。一点の汚れもない月がそうさせているのかもしれない。その時だった。スカッシュは投げかけられる視線に気がついた。その視線は暗闇の中、迷うことなくスカッシュにだけ、意識を投げかけている。ただ、殺意はない。それどころか根本的な悪意すら感じられない。スカッシュをただ、物珍しさから覗いている、という表現が一番妥当だったが、それにしては気になる部分もある。スカッシュが一度に跳躍できる範囲、つまり彼の初動範囲から、測ったかのように一歩だけ外に位置している点だ。こちらが気付いていることに、その存在も気が付いているはずだ。だが、数秒たっても数分たっても何ら動きはなかった。スカッシュをじっと眺め、鑑賞されているかのような感覚。快いものではない。長刀を手に取る。刀身と鞘が触れ合う微弱な金属音。そして、それに気がついた者がいる。ヴァイスだ。

「・・・どうした?」

 彼もまた一流の戦士である。こんな地で熟睡する人間ではないということは解っていた。

「何かがこちらを見ている」

「・・・妙だな」

 スカッシュも同感だった。視線は相変わらずだが、意識、つまり気配がだんだん柔和なものに変化していくのが手に取るように解る。それはもはや好意といても差し支えはなかった。ただその意図が読めない限り、長刀から手を離しはしない。

「ん・・・。どうひたの?」

 不穏な空気を感じ取ったのだろう。どこで手に入れたのかがいまだに謎である牛の着ぐるみに包まれているタムタムが、まさに寝ぼけ眼で起き出した。その姿は彼女によく似合う、可愛らしいものではあったが、この状況に相応しいものではなかった。また気配が変わる。一気に気配の重みがなくなり、逆に軽い躍動感を伴うものになった。これは・・・喜んでいる?

「どうもしない。まだ早すぎる。寝てろ」

 慇懃無礼にヴァイスが言い放った。少なくとも相手の様子では攻撃性は感じられない。意図が不明瞭な以上、警戒だけは続けなければいけなかったが、それでもスカッシュとヴァイスでどうにもできない存在、というのは考えられなかった。

「んー。寝るー」

 牛の姿をしたタムタムは、そのままバタンと倒れこむように眠り始めた。

「・・・幸せなヤツ」

苦笑しつつヴァイスが溜め息をつく。そして・・・。

「いなくなった」

 それまで視線を片時もはずすことなく見えない何者かに発していたスカッシュもまた、溜め息をついた。時間にすると10分に満たないくらいだっただろうか。それでもスカッシュにとってはかなり長く感じられた。夜はまだ深い。月の明かりも煌々とパーティを照らしつづけている。おそらくあと3時間程度は夜も白みはしないだろう。圧された空が、光を取り戻すために助けを求めている。だが、今の月自身と星星に彩られたこの空が、スカッシュがリイムを除いて唯一、心を許せるものなのかもしれなかった。

−3−

「私そんなバカみたいな事言ってないわよ!」

「言ったよ。な〜にが「んー。寝るー」だ」

 喧喧囂囂とした朝から賑やかなパーティだった。皆が起きた後、ヴァイスからパーティ全員に昨夜のことが報告されていた。特に危害を加えようという意志はなさそうだったが、監視されているのかもしれない、周囲には今まで以上に警戒を怠らないように、ということだった。その時に「そんなことあったんだ」と言ったタムタムに、ヴァイスが「お前一度起きてるんだぞ」と返したことから始まった。

「姿形は全然解らなかった?」

 チームリーダーであるリイムも、ヴァイスとタムのやり取りに苦笑しつつも最低限の確認は忘れない。

「ああ」

 いつものように感情のこもらないスカッシュの声がリイムに届く。

「・・・すまない」

「ううん。仕方がないよ。話を聞いていると相手も相当の使い手らしいし。間合いから一歩外した距離にいたんでしょ?」

「それはそうだが・・・」

 確かに危害を加えるつもりはなかっただろう。そこまで演じる器量の持ち主だとしても、咄嗟には必ずその気配は出てしまうものだし、そうなった場合、一気に致命的な場面にまで迫られることはなかっただろう。スカッシュが気付く前なら考えられないことはなかったが、それを許す彼ではない。だが、スカッシュが気にかけているのは違和感だった。言葉では説明することのできない異質な空気。攻撃性を秘めたものではなく、それでいて決して友好的な気配ではなかった。姿形を捉えるどころか、気配をも感じ取ることは出来なかったのだ。ただ視線のみが、スカッシュたちを取り巻いていた。それは途方もないほどに距離を取っているか、あるいは、気配を「わざと」微弱にこちらが感じ取れるまでに発しているかのどちらかだと思われた。そしておそらく、前者ではあるまい。ヴァイスですら気付いたことは、それを如実に物語っている。ヴァイスも剣士としては一流ではあるが、それでもスカッシュに比べればその差は歴然としたものなのだ。

「あれ?」

 最前を歩いていたリルルが唐突に声をあげた。その視線の先には、ただ一人の少女が佇んでいた。寒さはやはり厳しかったが、突き抜けるような青い空と、その中で燦然と輝きを見せる太陽がそれに気付かせてくれないくらいに、この日は穏やかだった。農道にしてはかなり太いこの道の先―――、広大な砂漠にそれでも褪せない存在感を示すようにしてあるオアシスのように、その先には一本の巨木があった。その麓に、一人の少女がいた。

「どうしたの?」

 パーティと手が届きそうなまでに近づいてから、リルルは少女に声をかけた。

「迎えを・・・待っています」

 か細い声だった。こちらに振り返ったと同時に腰まである長い藍色の髪が、風にその身を任せていた。スカッシュのように抑揚のないものではなかったが、それでもやはり感情に富んだ声ではなかった。少女はそう答えたきり、今までそうだったように空のただ一点を見つめつづけた。その瞳は強い意志に支えられている。見紛う事のない、その少女の瞳は、かつてのスカッシュに酷似していたものだった。

「こいつは・・・」

 スカッシュが思わず口を開いたと同時に、少女は振り返ると一言だけ言い放った。

「すぐにこの場から立ち去ってください」

「どうして?」

 問い返しても少女は何も答えなかった。だが、そうなると何も聞かずにこの場を立ち去れるほどこのパーティの長、リイムは大人ではない。

「何か困ってるんだったら・・・」

 その刹那、強烈な圧迫感がリイムを襲う。その正体の出所は、少女が見つめていた空にあった。

「な、なんだありゃ!?」

 ヴァイスの、呻きに似た言葉が口をついた。その瞳は、畏怖のそれだった。

「・・・翼竜」

 苦々しげにスカッシュが呟く。魔界にしか生息せず、また極端なまでに同族以外を敵視する、獣族の中でも何本かの指に入るほどに凶悪な生物。それが翼竜だった。そしてその背に人影が見える。まだかなりの距離があるために風体までは測りかねたが、一組の男女であろうことは辛うじて解った。

「危険だ。リルルとタムタムは彼女を」

 リイムは言うが早いかその帯剣を手に取る。肉眼で何とか姿を捕えることが出来る距離。なのに目をそらすことが許されないほどの強烈な圧迫感。身体が全身を使って危険だと発していた。だが、だからといって年端もいかない少女をこの地に残して立ち去るなど、リイムの中の選択肢として存在しない。

「来るぞ」

 ヴァイスが微動だにせず言う。翼竜と、それに乗った二つの人影がその全てを視認出来る距離にまで近づいた。

「こんにちわー。ライナークの王国騎士団のみなさーん」

 禍々しい翼竜の、丁度頭の部分が重なって見えないが、その声は女性のものだった。隣にいる男は、微笑んでいるようにも見える。全身を白い装束で包み、肩まで流した銀髪が風に揺られている。すると傍らにいた女性が翼竜から飛び降りた。飛び降りたといっても地上まで何十mあるかわからない距離を、だ。

「よいしょっ、と」

 綺麗に足から落ち、反動で身を低くしたが、それだけだった。男とは異なり真っ赤な装束に包まれた女性は、まだ少女といっても良かったかもしれない。ただ、リイムやタムタムより齢的には上であろうことは見て取れた。広く整えられた肩までの栗色の髪を適当に梳かすと、肩で一息ついた。

「ライナーク騎士団の人たちだよね?」

「そうです。レイヤから王宮へ帰還するところですが、あなたたちは?」

「私はベラドンナ。よろしくね」

 といってリイムに手を差し出す。もし、このベラドンナと名乗る女性に不審な言動があれば、さすがのリイムも緊急的な処置に出たはずだ。だが、彼女はそれをさせなかった。さきほどまでの威圧感は上空の翼竜から発せられてはいたが、ベラドンナからは微塵も感じられない。だからこそ、スカッシュも動くに動けなかったのだ。間合いどころではない。手を伸ばせば触れられる距離にベラドンナはいるのに、だ。

「よ・・・よろしく」

 たどたどしかったがリイムも手を差し出し、二人は互いの手を握り合った。ベラドンナの手は華奢で、とても格闘や剣技に通じているとは思えなかった。

「で、そのベラちゃんがあんなのに乗って一体何事だ?この世界には翼竜はいないはずだぜ?」

「あれ、よくあれが翼竜だって解ったわね、って・・・あなたたちだもんね。解るか」

 ヴァイスの言葉にもベラドンナは一人心地だ。

「さ、アーちゃん、行こっか」

 ベラドンナはそれまでタムとリルルの影になっていた藍色の髪をした少女の元へ足を動かそうとした。それを・・・、

「待て」

 沈黙を守っていたスカッシュがベラドンナの首筋に彼の長剣をつきつけた。気配は感じられなかった。素早いどころの騒ぎではない。誰に目にとまることもなかったはずだが、ベラドンナは動きを止めただけで目線を真横、スカッシュへと向けた。

「なにかしら。騎士団の隊員ともあろう人間が、一般の人間に刃を突きつけるの?」

 ベラドンナの表情には笑みが浮かんでいた。この時点でようやくリイムも気付く。彼女は普通ではない、と。

「何があるか知らないけど、彼女は恐がってる。これじゃ攫おうとしているように見えるんだけど」

 そのリイムの言葉にベラドンナはクスッと鼻から息を漏らした。

「お前・・・魔族だろう」

 いつもよりも冷たいスカッシュの声が霧散する。

「半分当たり、半分外れ。でも魔族だからって簡単に傷付けるのかしら?ゲザガインの忘れ形見さん」

「!」

「とはいっても、あいつはまだ生きてるけどねー」

 一瞬だがスカッシュの刀剣が震えた。動揺しているのだ、あのスカッシュが。彼があのゲザガインの血を持つということを知る人物は、この人間界ではほとんど知られていないはずだった。確かに魔界の者としては常識だったのかもしれないが、それは何の意味をなさないといっていい。魔界では血がどうした、親子だからどうした、という俗世事は、人間界のものに比べると非常に希薄なものでしかないからだ。全ては、力の世界なのである。

「リイム。あまり芳しくなさそうだ」

 リイムやスカッシュ、そしてヴァイス達と、タムタム、リルルが控える丁度中間で、決して警戒を解こうとしていなかったモーモーが言った。そしてその言葉は、パーティの全員の思惑と、一致した。

「話の解んない人たちねー!お兄ちゃん!」

 ベラドンナがそれまで動きを見せなかった上空の白い影に向かって叫ぶ。その影は、一度だけ頷いたように見えた。空気が、硬さを増した。

「な!」

 スカッシュの短い単句に思わずリイムが振り向く。しかし、そこにいたはずのベラドンナの姿がなかった。赤い残像を残すこともなく、彼女は影も形も消えた。

「気をつけてください!魔導の波長を感じます!」

 巨木の傍らにいたリルルが叫ぶ。しかし、同じくその場にいたタムタムの様子がおかしい。表情は蒼白で脂汗にまみれ、目の焦点が合っていない。手足の先が小刻みに震えているのが解る。

「うわあっ!」

 突然リイムは何者かに突き飛ばされた。予想していないことだったとはいえ、リイムの身体を数mも吹き飛ばすその力は、尋常なものではない。だが、それは「何者か」ではなかったようだ。リイムが方向を向きやると、いつのまにか不敵な笑みを携えたベラドンナの姿がそこにあった。彼女の右手からは明らかにそれと解る魔導の余韻があった。肩から直撃を被ったのか、左肩がずいぶんと痛む。幸いにして正面、背後からの直撃ではなく、左側面からのそれだったため剣を振りかざす右腕に支障は無いものの、これで事態の大勢は決まってしまっていた。

「リイム!」

 ヴァイスが駆け寄る。スカッシュはベラドンナと対峙する格好で視線を向き合わせたままだ。

「解ったら、あんまり邪魔しないでよね」

 ベラドンナが赤い装束を風に任せながら嘲笑する。その姿はふてぶてしく、だが威圧に満ちていた。上空を見上げるとまるで巨大な岩石が空を飛んでいるかのような禍々しい翼竜が、悠然と羽ばたいていた。頭部らしき部分から生えている二本の角の右側を左手で掴み、彼女の兄だという銀髪の男が、やはり悠然と微笑んでいる。

「じゃ、邪魔だって?」

 言葉を発するのも辛いくらい、リイムの左肩は重傷だった。強靭な皮で作られた充て物が不自然に曲がり、巨木の麓に落ちていた。

「そう、邪魔」

 つまらなそうにベラドンナが髪を弄ぶ。リイムにはその姿は無邪気な死神のように見えた。

「あんまりごちゃごちゃした事って嫌いなの。どう?大人しくアーちゃんを渡してくれればそのままサヨナラ。邪魔すると・・・」

 彼女の目が気のせいか赤く光った気がした。紅玉のように透明で、美しいその瞳が、余計に残忍さを助長させている気がした。

「全員この場で屍、ね」

 信じられないことにベラドンナは片目を閉じて、子供がいたずらをしかられたときにのような顔で、微笑んだ。状況は確かに芳しくなかった。雷光の騎士であるリイムにたった一撃で戦闘不能なまでの重傷を負わせ、あのスカッシュですら間合いを詰めるのを嫌っている。そして上空には凶悪の代名詞である翼竜に乗った、ベラドンナの兄だという人物まで控えている。剣や拳を使った近接戦闘なら勝機は見えないこともなかったが、それを許す彼女ではなさそうだった。そしてもしそれが可能なら、スカッシュがすでに答を出している。

「あれ・・・?」

 何かを思い出したようにベラドンナが呟いた。しかし場の空気は動かない。重く、硬く、一触即発のはずだが、しかしあくまで軽いベラドンナの言動が、リイム達にとってはざらついた、異質なものに感じられた。リイムが左肩を庇いながら、ヴァイスの肩を借りて立ち上がる。ちょうどスカッシュとベラドンナの向こう側に、一つの人影が見える。数百mはあるだろうか、何とか形だけを捉えられる程度だったが、それでもスカッシュには見えていたようだ。

「・・・引けるか?」

 状況がそれを許さないことは、スカッシュ自身にも解っていた。その言葉で、パーティの人間は、さらに迫る危機的な状況に絶望する。

「あいつは・・・」

 リイムを支えながらヴァイスが呆れたように呟く。ようやく全身を肉眼で捉える距離にまで近づいてきた。完全な人ではない。モーモーなどと同じくした、半人間、半獣族の姿だ。モーモーのそれは牛だが、「それ」はおそらく狼だろう。上半身を鮮やかなマリンブルーに染めたウルフコマンドの姿には、ヴァイスも、そしてリイムにも見覚えがあった。

「蒼月・・・」

 かつてトランプという男とともに海賊団「スカルボンバーズ」を取り仕切っていた蒼月。寡黙、冷静、俊敏でいて、頭の切れる男だった。だが、彼はあの「虹色の魔石」抗争の結果、ほぼ死亡に近い形で行方不明になっていたはずだった。

「久しいな・・・ヴァイス。それに、ライナークの勇者」

 低く、くぐもったような声が場に響く。だが、腰に見慣れないものを携えている。刀剣だ。

「やっぱり生きていやがったか・・・。それに、武器には頼らないんじゃなかったか?」

 ヴァイスの軽口は、状況に光が見えてこないことに対しての精一杯の強がりであったかもしれない。「虹色の魔石」を巡る抗争の際、リイム達の前に立ちはだかったウルフコマンドの蒼月。稲妻のようなスピードと、それによって繰り出される独自の格闘術でリイム達を苦しめた。「血で差別されない国」という壮大な、だが形の見えない旗印の元に、蒼月はかつてトランプを利用し、「虹色の魔石」の力でその夢を現実のものにしようとした。

「ジギタリス、ベラドンナ。戻れ」

 ヴァイスの言葉にも意を介さず、蒼月は草木がゆれるかのように静かで、しかし脳髄を直接打つような重い言葉で二人に呼びかける。

「な、何よっ。あんたまで邪魔する気?もう少しだから待ちなさいよ」

 この短時間でもわかる通り、勝気で気の短いらしいベラドンナが蒼月を威嚇する。

「・・・命令か?」

 上空からジギタリスと呼ばれた青年がウルフコマンドを見下ろす。肩を超える長い、光のような銀髪が風に靡く。

「そうだ」

「・・・解った。戻るぞ、ベラ」

 それが合図となったのか、翼竜が戦慄いた。咆哮、ともとれたその雄叫びは、場の空気を変える一端をなしたようだ。

「ちぇーっ。つっまんないの!」

 兄に当てつけるように言葉を投げつけると、ベラドンナは高く跳躍する。たった一飛びで、低空にまで高度を落としていた兄の跨る翼竜に着地するその身体能力は、やはり尋常ならざる者のそれだった。渦中の少女、アーメイルと呼ばれたその少女は、巨木の元でこの一部始終をまるで絵空事のように眺めていた。終ぞ一言も言葉を発しなかった彼女の姿も、尋常には感じられなかった。

「いつか、剣を交えるときもくる。楽しみにしているぞ」

 蒼月はそうヴァイスに告げると、この場のすべてに興味がないかのように振り返り、広大な農道を、来たときそうだったように、まるで風景に迎合するかのように自然な足取りで去っていく。リイム達は、その地を一歩も動けなかった。今では蒼月のはるか前方に兄妹の乗った翼竜の姿が少しだけ見ることが出来る。

 冷たい一陣の風がパーティを取り巻いた。日が丁度真上の位置にある。今日は、暑くなりそうだった。

−4−

 タムタムの様態が若干ながらも好転した頃には、陽はすでに西日に傾きかけていた。それまで蒼白な表情で、呼吸すら感じられないかのように眠り続けるタムタムの姿に、パーティは帰還の途につけずにいた。

「安静にしておくだけでいい」

 蒼月やあの兄妹が姿を消した直後、スカッシュはリルルにそう告げた。アーメイルと名乗ったあの少女も、緊張が解けたせいかその場に崩れ落ちたが、少女はただ安らかに寝息を立てている。だが、タムタムの様態はそんなアーメイルのものとはかけ離れすぎていた。

「解るのか」

 ヴァイスがタムタムの傍でスカッシュを見上げる。スカッシュの向こうに煌く太陽は、この全てを知っているのだろうか。

「・・・魔族の瘴気に当てられただけだ。しばらくは動くことも出来ないが、特に処置を施せるものでもない」

「瘴気?」

 リイムが思わず繰り返すと、スカッシュが一つの呼吸を置いて説明を始めた。

「魔族のみが持つ独特の気のことだ。悪寒と寒気、血脈の不変動や全身硬直に襲われる。必要なものは慣れ、それだけだ」

「でも俺達は何もなかったぜ?」

「・・・体内に持つ琥珀の力と影響しているらしい」

「じゃあ、リルルは?」

 そこでスカッシュはリイムから顔を逸らす。一度だけリルルに目を合わせたかに見えたが、それは気のせいだったかもしれない。

「・・・解らない」

 紅く染まろうとしている空に、数羽の小鳥達が群れをなして舞っていた。スカッシュの心に落ちた一変の闇が、彼の心を蝕んでいるかのように。魔族である負い目を感じる必要はない。確かにかつて、リイムに刃を向け、この大陸を手中に収めんと暗躍した経緯は事実のものだ。最後には「雷光の剣」を手にしたリイムに討たれ、魔族のそれとして一生を終えるはずだったスカッシュを再び生へと追いやったのは、紛れもない悔恨の意からであったことを知るのは、リイムだけなのだろう。

「ごめ・・・んね。迷惑かけちゃうね・・・」

 途切れ途切れにタムタムの力ない、か細い声がリイムの耳に届く。普段の彼女からは想像も出来ない弱々しいその声に、リイムもさすがに焦りの色を隠せなかった。

「そんなことはいいから。ゆっくり休んで」

 そうしてタムタムは再び短い闇へと落ちる。これが、すでに二回ほど繰り返されていた。

−5−

 木の枝が弾ける音が不定期に繰り返される。周囲は混沌とした闇へと変わり、パーティはこの場で日を終えることで合意した。そのことをしきりに気にかけていたタムタムも、今はもう穏やかな寝息を立てている。どうやら状態は安定してきているようだった。この夜も一人夜番を受け持ったスカッシュは、ただ木々の奏でる音と紅く燃える炎に問い掛けていた。

(この血が・・・あいつらやこの少女を呼び寄せたのか・・・?)

 微動だにすることなく視線だけをアーメイルに向けると、少女はまだ眠り続けたままだった。定期的な吐息がスカッシュに届く。だが、それを乱した人物がいた。空気が動いたことにスカッシュが気付き、その方向を見やる。

「スカッシュ・・・さん」

 ずっと起きていたのだろうか。寝起きのものとは思えないはっきりとした、だが周囲を気遣ってのささやかな言葉遣いが、スカッシュの耳に届いた。

「なんだ」

 リルルの不安げな表情を見取ったとき、問わんとしているところに気付いた。

「教えてください。どうして、私は無事なんですか?タムタムさんはああなったのに、同じ琥珀使いの私は何事もないなんて」

 一度、大きく溜め息をついて見せた。この意図に気付いてくれれば、その先を説明する必要もなかったのだが―――。

「・・・薄々は気付いてるんです。琥珀使いとして、ですよね」

 魔族でない者でも、同じように途方もない対外的な力、魔導を使える人たちがいる。元よりその資質を放棄した獣族は持たないが、精霊族と、そしてごく一部の人間族は「琥珀」を媒体として、魔族がそうするように術を唱えることが出来る。ただ、その存在は非常に希有で、元よりの王国騎士団員であるタムタムと、そして「虹色の魔石」の件以降同じく団員となったリルルなど、大陸でも少数だ。

「もう寝ろ。朝も近い」

 一度だけ大きく木の枝が弾けた。一瞬の燃え盛る炎の影に、薄れ行く夜の面影が残っていた。

「わかりました。おやすみなさい」

 正直なところ、スカッシュ自身も驚いていた。魔族はその身体から瘴気を発することがある。感情が極端に昂ぶった時などに無意識に発せられるものだが、同族の輩達はもちろんそれを一切意に介さないし、また、理由はハッキリしていないが人間族の中でも琥珀使い以外には感じられないということも解っていた。しかもその琥珀使いですらかなりの高位の者でなければその症状を訴えなかった。つまり、タムタムはすでに自身は気付いていないだろうが、かなりの使い手であるということに他ならなかったのだ。次にあの兄妹に遭遇することがあっても、おそらく耐性は出来ていることだろう。あの時、油断もあったかもしれないが、タムタムが無事であれば、リイムが肩に怪我を負うこともなかっただろうし、もしかすると全ての決着も終えていたかもしれなかった。

 結局は、己の力不足―――。スカッシュがその拳を握り締めると、また木の枝が弾け飛び、宙に舞った。

−6−

 肌を切るような風は、王宮の都市部に近づくにつれその存在を薄めつつあった。春の色に賑わうライナーク王宮下の都市部は、人々の表情も鮮やかな色を帯び、かつてのライナークに蘇りつつあった。ゲザガインの影が落ちた二回の抗争で、大きな打撃を受けたライナーク王国も、やってきた春とともに、以前の、そしてそれ以上の繁栄を疑わせない、見事な復旧ぶりといってよかった。

「任務、御苦労様でした!」

 重厚な石造りの王宮正門を守る二人の衛兵がリイムを先頭とするパーティを敬う。もはや形だけの部署なのだが、リイムは決して彼等を労う事を忘れない。

「いつも御苦労様。頑張ってね」

「ありがとうございます!・・・あ、肩が」

 衛兵の一人、左側の若い、今年度からの登用であろうかリイムにも見覚えのない少年がリイムの肩に気付く。左側の皮充てはかの地に捨ててきてある。もはや使い物にならなくなっていたために。

「ああ、もう大丈夫。タムタムがいたしね」

 困ったように笑うリイムに、まだ少年兵は不安の色が隠せないでいるようだ。遊びではない、自分の命を賭しての任だということに気付くには、やはりまだ若すぎるのだろう。こればかりは自分か、あるいは自分の一番大切な存在が傷つかない限り意図できるものではない。リイムの苦笑にはそういった思いも含まれている。

「あの姫さんが卒倒しなけりゃいいけどな」

 傍らでヴァイスが悪戯っぽく笑う。

「一応外傷としては完治してるはずだけど、まだ違和感ある?」

 翌日には完調近くにまで復調していたタムタムがわざと少年兵らに聞こえるように問う。報告の任があるために真っ直ぐこの王宮へ赴かねばならないのは当たり前のことだ。おそらくあの姫は青ざめてリイムの傍へ駆け寄るだろう。そう考えるとタムタムも一人可笑しそうに声を出して笑った。

「姫って、あのライム様ですか?」

 少女、アーメイルが恐る恐るといった具合にヴァイスに話し掛ける。この二日の道中で、ようやく対等に話すまでに打ち解けてくれたこの少女だが、まだ肝心なところは何も解ってはいなかった。例えば、なぜこのごく普通に見える少女が、あの兄妹に攫われようとしていたのか、など―――。

「ああ、そうさ。おっさんの次のこの国の国王様だぜ?あの姫さんは」

「おっさん?」

 ポカンとした表情でアーメイルがヴァイスに聞き直す。

「リチャード国王陛下の事よ。ヴァイスもいい加減その無礼な口利き直したら?」

 タムタムが溜め息とともにヴァイスに向き直る。出身が盗賊団だというせいなのか、それとも「虹色の魔石」抗争の経緯がそうさせるのか、ヴァイスは国王や姫君、あるいはその血縁者などに対して形式として敬うといったことがない。リチャードもそれを容認してはいるものの、やはり形として王国の騎士団に名を連ねる以上、けじめをつけて欲しいと思うのだが、ヴァイスは右に左以上には思っていないようだった。そんな時、先にリチャード国王に謁見を兼ねた報告の許可を受けに行っていたリルルが正門奥から駆けてくるのが見えた。

「みなさーん!いいですよー!」

 廊下の奥からリルルが声を張り上げている。パーティは、誰が言うともなくその歩みを正門から奥へとやった。ただ一人、口を開くことのなかったスカッシュも、普段は王宮へは近寄らないのだが、この時だけは別だった。そしてその目線は、アーメイルに向けられている。

(これから・・・か)

 この少女の持つ運命、というやつに思いを馳せる。だが、それが楽観的なものになることは、決してありえなかった。

−7−

 やはりというか、予想通りというか、リチャード国王陛下の一人娘であるライム=ライナークの見せた反応はひどいものだった。定期視察から久しぶりの帰還である。リイムを心に想うライムは、普段通りに玉座のリチャード国王陛下に並ぶ形で立していたが、その表情からも心ここにあらず、といった具合だった。さらに謁見の間にリイム達が姿を見せるとその表情は気付かない者がいないほどに輝いた。だがその視線がやや下、丁度怪我の跡が残る左肩に向かったとき、短い悲鳴とともに間髪をおかずに走り寄る有様だった。

「あ、あの、このお怪我は・・・?」

「あ、いや、大したことは・・・」

「で、でもこんなになってますよ・・・?」

 そっと撫でるように姫がリイムの左肩に触れる。か細い手が、完治したとはいえまだ恐々とした跡の残る肩と重なると、ひどく不釣合いな気がした。

「何かあったのか?リイム」

 いつもの温和なそれではない、やや強張った表情と声で、リチャード国王が王座から身を乗り出し、リイムへと歩を向ける。

「それはまた後ほど。任務の方は滞りなく終えました」

「ご苦労だった」

 国王のその一言を合図とし、リイムを除いた、謁見の間にいた全員が頭を垂れ、後にする。だが、スカッシュだけがその場を動こうとせず、それまでもずっとそうだったように立ち尽くしていた。

「どうしたの?スカッシュ・・・」

「言っておかなければならない事がある」

「それはリイムの怪我に関係あることか?」

 リチャードが再び王座に腰をかけ、スカッシュが短く顎を下げるのを確認すると、傍らにいたライム姫に眉一つで指図をする。意図を察したライムは、リイムに一度目線を渡した後、間を後にした。謁見の間に残るはリチャード国王、リイム、スカッシュの三人。その中でまず口を開いたのはスカッシュだった。

「王国内に、魔族がいる」

 その一言を耳にしたリチャードの表情は、苦悶でも驚愕でもなかった。理解するのに時間がかかったのだ。

「なん・・・だと?」

 その目線はスカッシュからリイムへと向けられる。この王国が度重なる魔族の襲撃でどういう状態に陥ったか、リチャードはその艱難の歴史を思い返さざるを得なかったのだ。一度は我が身をもって自らが前線へと繰り出した勇歴を持つ身。だが、齢を隠せなくなってきているリチャードにとって、これ以上の悪しき事態は想像すらしていなかった。それほどに、この王国は戦いとしての歴史を持ってしまっている。

「確認できたのは三名。いずれもかなりの使い手です」

 リイムも重々しい空気の中で告げる。そして思い返していた。ジギタリス、ベラドンナ、そして蒼月・・・。結果として翼竜から離れることのなかったジギタリスはともかく、ベラドンナの戦闘面での能力は一瞬で理解できるものだった。琥珀を媒体とせずに魔導を使えるのは魔族の証明であり、そして魔族というだけで人は抗う意思すら剥ぎ取られてしまう。そんな魔族を、人々は畏怖と、脅威として認知していた。

「そうか・・・。だが何を目的として・・・」

「あの少女だ」

「少女?」

「帰還の途中で遭遇したアーメイルという少女です。彼らは彼女の身柄を欲していました」

 次々と明かされる不明瞭な事態に、リチャードの口は次第に重くなっていった。魔族を含めた複数の存在が見知らぬ少女を拉致しようとしたこと、その連中は手段を選ばずにその目的を遂行しようとまでしたこと、その連中はライナークの王国騎士団、つまり大陸全土を見渡しても屈指のパーティをもってしても芳しくない結果となってしまった事など、杞憂ではなくなってしまっている事態は、国を統治する者として最悪の事態といってよかった。

「あの少女は・・・魔族の血を持っている」

「な、なんだって!?」

 スカッシュの口から出た言葉はリイムをも驚嘆させた。魔族は、純血の魔族はもちろんとしてこの世界にいないとされるのが王国、そして大陸の一般の認知である。禍々しい欲望と、それを裏付ける圧倒的な戦闘力でこれまで何度も言うなれば人間界を蹂躙しようとした過去を持つ魔族は、人々から忌み嫌われていたし、まして人が魔族と結ばれる事など禁忌は愚か想像すらも許されないことであった。そんな魔族の血を引く者が、この大陸に、スカッシュを除いて存在するというのである。それだけで尋常でない事態なのだ。

「それは間違いないか」

 リチャードもスカッシュが嘘、偽りを言う者でないことは知っている。だが、それでも否定して欲しかった。この王国に、そしてこの大陸に魔族の血を継ぐ者がいてはならない。本音はそこだった。これは一国の王として当然の願いである。

「間違いない。俺もそうなのだから」

「その連中がその少女を欲しているのも、そこに関係すると」

「だろうな」

 リチャード個人としての考えが前に出せることではない。多数の、魔族の存在など普段夢にも出てこない、罪のない民を護る義務がある。それを目的としての選択肢は、おそろしく少ない。苦悩の原因はそこにある。何かの犠牲を無くして成せる目的などありえない。一歩でも上に立つ人間に聳え立つ重圧的なまでのその壁は、砕く事も出来ず、抜ける事も出来ず、ただ見上げるのみなのだ。

「リイム。お前に新たな任務を命じる。その少女を、この国の威信にかけて護り抜け」

「心得ました」

 膝をつき、頭を垂れる。リチャードのその言葉の重さを、リイムも理解していた。

「辛い任務になるかもしれん。だがお主なら・・・。・・・スカッシュよ」

 目線を受けたスカッシュはただ、自らの意思を確認する意味も兼ねて、力強く頷いた。

−8−

 アーメイルは空を眺めていた。春の季節に相応しく風は穏やかで空気は和らいでいた。故郷を懐かしく思うことはない。自らに流れる血がこの結末へと導いたのなら、この先に待ち受ける苦境もまた、そう想像に難くない。思うと閉塞的な故郷だった。対外的な意志を発信する事などなく、ただそれまでがそうであったかのように、これからも過ごしていくだけの集落。時が止まってしまったかのようなその地に残してきたものなど何もないはずだった。ただ、最後まで我が身を案じてくれていた両親を除いては。

「ああ、アーメイル。ここにいたの」

 声の方向を振り返るとタムタムの姿があった。あれからまだ日もそう経っていない。なのに彼女の表情にはまだ疲弊の跡が色濃く見て取れた。ジギタリスとベラドンナという二人組みの目的はアーメイルの身柄。そのことにはアーメイル自身も解っていた。だからこそ遠い故郷を離れ、あの地で彼らの「迎え」を待っていたに他ならなかった。だがそこに現れたのがリイムを始めとしたライナークの王国騎士団。彼らの勇名は遠き故郷の地でもさすがに聞き及んでいたし、一目見て彼らがそうなのだと認知できたのだが、そのときでも「ああ、ここはライナークなのだな」程度の認識でしかなかった。

「すいません、勝手に出歩いて」

「いいのいいの」

 タムタムは笑いながら自らの右手を顔の前でひらひらと振って見せた。王宮にやってきてから三日目の午後だった。故郷を離れるのもはじめてであれば、ここまで人々と接するのもアーメイルにとってはじめてだった。故郷では両親を除くとほとんど他者との係わり合いを持たないのが当たり前だし、ただ生きていくという観点から言えば、それは特に必要のないものとさえいえた。

「んー。今日も良い天気ねぇ」

 タムタムはそういって両手を組み合わせ、手のひらを空へと突き上げる。アーメイルもそれに倣って空を見上げる。満天の青空とまではいかなかったが、青い空は陽を中心として白い光に浸食されているのが印象的だった。

「青空って、久しぶりです」

 不意、とでも言うのだろうか。自分でも想像していない言葉を口にする。

「あれ、アーメイルの住んでた所って・・・」

 しまったという思いからタムタムの言葉の端を捕らえ、すぐにこう付け加えた。

「いえ、ただこの頃空をちゃんと見ることってなかったので」

「ああ、そういう意味。そうね、あまり普段気にかけないものよね」

 内心胸を撫で下ろしたアーメイルだった。これからは注意しなければならない。自分の素性はこの王宮に、この国に、この大陸にとって有るまじき者だという自覚はある。あの二人組みを見た瞬間、そうだという確信が持てた。同時に恐怖を感じなかったわけではない。だが、自分はそうなるために故郷を、両親を捨て、外界へ足を踏み出したのだ。ここにいることはアーメイルにとって本懐ではなかった。

「ところで、まだ教えてくれない?」

 その言葉を合図に、アーメイルはまた空へと視線を戻した。強要されているわけではない、素性の全く知れない者に対してという意味では甘すぎるとも思うのだが、アーメイルは出身地、あの地にいた目的、あの二人組みとの関係など、問われるすべての事に対して沈黙を通していた。おそらくアーメイルが魔族の血を継いでいるという事はすでに知られているだろう。二人組みと同じく、スカッシュと呼ばれる剣士を見た瞬間、アーメイルには直感できた。互いに魔族の血を持っているという事に。ならばなおさらの事、それ以上に自らを語るわけにはいかなかった。

「あんまり聞いちゃ悪いもんね。じゃあ、気が向いたら話してね?」

 優しさ、とでもいうのだろうか。アーメイルにとって拍子抜けするほどに、尋問は頻度も内容も軽かった。

「すいません」

 ようやくタムタムに向き直り、その言葉だけを返した。タムタムは何も言わず微笑むだけで、アーメイルにとってはこの空に似た眩しさだった。

−9−

 その知らせは唐突だった。王宮への帰還から10日後、タムタムの体調もようやくそれまでと遜色ない程度に回復した頃を見計らってのように、港町クレイアの襲撃は報告された。しかもその蛮行は命を持たない骸骨の軍隊のものだという知らせも同時に齎され、瞬時にして魔族との係わり合いを想像するのはリイムにとって当然のことだった。

「骨の軍隊って、まさか・・・」

 タムタムが軽く思考を巡らせるだけで、簡単にその答えに辿り着く。

「スカルボンバーズ、だな」

 モーモーが溜息と同時に言う。となればその背後に何らかの影があることは容易に想像がつく。元々意志を持たないスカルたちを操るのはかつてのトランプのような同族か、もしくは膨大な魔力をもってして、それを糧に「操る」かのどちらかであった。

「スカッシュ」

 リイムがスカッシュに真意を問うてみる。唐突ではあるが、目的が解らない。単なる蛮族の襲撃というにはタイミングという意味で疑問をもつのは当然であるし、そもそもスカルたちが活動しているという事自体が疑念だった。

「陽動・・・にしては芸がないが」

「確かに。これがあの三人組のものなら、目的は手漉きの王宮に残るアーメイルになるよね」

 リイムも頷く。だが、クレイアの町をそのまま見過ごすという選択肢は、もちろん最初から選択肢となりえていない。

「モーモー、悪いけど」

「任せろ。二度と悪さできないように粉々に砕いてきてやる」

 モーモーが自らの二の腕を見せつけ、軽く笑って見せた。いつでも陽気でパーティの雰囲気を盛り上げてくれる存在を、リイムは心から頼りにしていた。真に信頼できる相手だからこそ、十の言葉を必要としない。そして相手は十どころか二十も三十ものこちらの思いを理解してくれる。

「あ、私も行きます。一人くらい琥珀使いがいた方が」

 リルルが手を挙げる。

「そうだね。じゃ、お願いできるかな」

「はい!」

 これでおそらくクレイアの町はなんとかなる。報告を聞く限り、規模からしてこの二人が手を焼くとも思えなかった。ただ一抹の不安があるとすれば、何かしらの魔族の存在がその場で隙を窺っているという可能性のみ。玉座のリチャードも同じくではあったが、即座に命を下した。

「ではモーモーとリルルは王宮の部下を率い、すぐに発ってくれ。ヴァイス、お主には頼みがある」

「おっと、王様直々の勅命か」

 タムタムがその言葉づかいに対しヴァイスを軽く睨む。それに気付いたヴァイスがすぐに目を逸らす。見慣れた風景だ。

「聖石ヘリンというものを知っておるか」

「ヘリン?ああ、知ってるさ。この大陸に散らばる四つの聖石のうちの一つだろ?」

「初耳だわ。リイム、知ってた?」

 タムタムが若干の驚きを含んだ表情でリイムに問い掛ける。

「ううん。僕も知らない」

「お宝関係の情報ならお手のもんだからな。でも、確かにこの大陸に四つしかないが、特に価値のないものだってされてるぜ。文献なんかにも出てこないし、骨董という観点からなら価値があるんだろうが、俺達には無用だったからな。それが?」

 過去に盗賊団を率い、大陸中の遺跡という遺跡を荒らし回っていたヴァイスにとって、情報という分野で敵う者はいなかった。その知識は膨大かつ繊細で、大まかな性格をしているヴァイスではあったが彼のもつその価値を疑う者も誰もいない。

「早急にそのありかを調べてくれ。もしくは入手できるようであれば手段・方法は問わない」

「そりゃまた横暴な言い方だな。誰か研究者の手にでもあったらどうするんだ?無い話じゃないぜ」

 リチャードのその言い方に棘を感じたのだろう。かつて力で蛮行を繰り返してきたヴァイスにとって、若干の失望がこもった言葉だった。

「それはない。確かに価値という点ではそこいらの石ころと変わらんが、誰かの手にあるという話は聞かんからな」

「・・・わかった。二日あれば充分だ。こいつらより早く片してきてやるよ」

 そう笑いながらモーモーを見やる。こういう物言いが嫌味にならないのもヴァイスという人間の魅力だった。

「よし、では三人は準備が整い次第出立を。くれぐれも気を抜くな」

 リチャードのこの言葉を機に皆が一礼し、間を後にする。直後の無人となった玉座で独り、リチャードが深い溜息を吐いた。その目線は宙を舞い、そして吐き出された吐息は胸中を案じるかのごとく、漂いながら霧散した。

−10−

「あれ、リイムはこれからどうするんだっけ?」

 それぞれの支度のため散開した面々だったが、王宮前まで目的地が同じだったタムタムが思い出したように口をついた。

「ああ、僕とスカッシュも勅命を受けていてね。ちょっと王宮を離れることになるんだ。といってもヴァイスと同じく明後日には戻ってくるけど」

 リイムに追随する形でスカッシュがリイムの後ろを歩いている。だがその心中は穏やかなものではなかった。あの日、スカッシュとリイムでほとんど極秘という形でリチャードにアーメイルの事を報告した日の事である。最後にリチャードが呟くようにたった一つの可能性を示唆した。それはリイムですらまったく関知しない、未知のものであったし、魔族という半面を持つスカッシュにとっても未知ではないにしろ想像をはるかに越えたものであった。もしその可能性が現実のものとすれば聖石ヘリンの捜索は当然だったし、最悪の事態を考えるとアーメイルの身柄をあの連中に攫われなかったことに安堵の溜息すら漏れたのだった。そして今日、スカッシュとリイムはその真偽を確認するためにとある場所へ赴かんとしていた。

「あ〜あ、私だけお留守番か」

 不貞腐れたようにタムタムがぼやく。ほぼ完治してはいるのだが、大事を取って今回のそれぞれの任からタムタムだけが外される事になっていた。

「そう言わずに。アーメイルの心を解してあげてよ」

 変わらず沈黙を通すアーメイルだったが、普段の生活に於いては笑みさえ浮かべるほどになっていた。それはタムタムやリルルといった女性陣の努力の賜物でもあったが、彼女に対して一切恐怖心を与えないというリイムの意志を徹底した結果でもあった。

「あ、あの」

 囀りのような、ともすれば聞き過ごしてしまいそうな声が三人に届いた。振り返って見ると白いプリンセスとしての正装を纏ったライムがこちらに駆け寄ってきていた。足並みは危なっかしく、とても見ていられるものではなかったが、幸いその過剰なまでに絢爛な衣装に躓く事もなく三人の元へ辿り着く。

「わ、私に何か、で、出来ることはありませんか?」

 息も切れ切れにライムはリイムと向き合った。リイムがライムの想い人であることは王宮内どころか国内中での公然とされていたし、当の本人達も知ってか知らずか特に意に介していない様子だった。いや、それよりもライムの方はその胸中が皆に知られていることすら知らないのかもしれないが。

「姫様。そのような恐れ多い事・・・」

「私も、私も何かのお役に立ちたい・・・です」

「リイムのお役に、じゃなくてですか?」

 悪戯っぽく笑みを零しながらタムタムがライムを軽く肘で突く。白い肌を軽く紅潮させ、押し黙ってしまうライム。いつもの見慣れた風景がここにもあった。

「あ、じゃあアーメイルのことをお願いしてもいいですか」

 アーメイルの事はもちろんライムの耳にも聞き及んでいた。ただ、その立場上、そしてまだ謎の多いアーメイルの素性から、リチャードが面会を禁じていた。ただ禁じるといってもそう厳格なものではなく、リチャード、リイム両人の意見がそうであっただけで、互いの一存でライムと彼女の面会を容認するという意志は交わしていた。

「え、アーメイルさんをどうすればいいのですか?」

「彼女と仲良くしてあげてほしいんです。なんというか、まだ少し我々に怯えているような部分があって・・・」

 言葉が濁るのは仕方が無いと言えた。まさかアーメイルに魔族の血が流れているという事などライムはもちろん、騎士団の誰にも言えるようなことではない。魔族という存在は、ただそれだけで畏怖の対象となる。これまでの歴史が血塗られた経緯を持つように、人々の心に積まれていった恐怖と義憤の思いは、代を重ねても消える事は無かった。

「はい、まかせてください!」

 リイムからの直接の頼み事がよほどライムの心を刺激したのだろう、満面の笑みでリイムたちの元を去っていく。もちろん三人に対しての一礼も忘れずに。この姫にしてこの国あり。近い将来王国がそう呼ばれるその礎を、年端のいかない少女が知らず知らずのうちに育んでいるのだった。

「この国をどうにかしようなんて、考えてないわよね?」

 タムタムのその言葉は、例の三人組の事を指している。そしてその言葉が向けられている先は、リイムではなくスカッシュに近かった。

「にしては手数が少ない」

 スカッシュの言葉は確かに正論だった。いくら魔族の手練とはいえこの大陸への侵攻はもちろん、ライナークという一つの国家を陥れることなど不可能だ。だが、その目的がたった一人の少女であるのなら、それを守り通すことのほうが難しいと感じるのだった。魔族という種族の実態、そしてそれらが犇く魔界の有様をスカッシュは身を持って経験している。だからこそ、騎士団の仲間達も彼の言葉に説得力を感じているのだった。

「なら、いいんだけど」

 タムタムの言葉も尻切れトンボのように力なく呟かれるだけだった。スカッシュの想像が正しければ、ヤツらはおそらく近いうちにまた何かしらの行動を起こすだろう。目的はアーメイルの身柄。だとするならばたとえ一日や二日といえども精鋭が王宮を離れるようなことは避けたかったが、しかし逆に言うならばその精鋭全員が総力をもってして、ようやく互角に渡り合えるかどうかという相手なのだ。クレイアの襲撃は陽動と見て間違いない。結果としてその愚作に乗ってしまうわけだが、リイムとスカッシュにとっても早急に片付けておかなければならない目的があった。

「あ、じゃあ私はこっちだから」

 そう言いつつタムタムは王宮の外で官舎を兼ねている離れを指差し、二人の元を去っていく。その後姿を見送りつつ、リイムがスカッシュに真意を告げた。

「もし明日中に王宮が襲撃されたら、タムタムだけじゃ・・・」

「急ぐぞ」

 リイムの言葉を遮り、スカッシュが先を行く。リイムも解っていはいた。他に現実的な選択肢などありえないこと、ただ一つだけ言えることは出来る限り迅速に王宮へ帰還すること、ただそれだけだということに。

「それじゃ、俺たちはクレイアへ向かう」

「気をつけて。万が一にあいつらが現われても決して無理はしない。いいね」

 珍しくリイムが語気を強めてモーモーたちを見送っている。その姿を見送る各々の中に、アーメイルの姿もあった。そして彼女を見つめるスカッシュの姿も。モーモーとリルルがクレイアから帰還するのは早くても三日、遅ければそれ以上の時間を要する。ヴァイスの場合目的はさらに単純化されているとはいえ、それでも明後日にならないとこの王宮への帰還は叶わないだろう。実際問題として今日というこの日と、そして明日の二日間。もし後に見て時代が悪辣な力で捻じ曲げられたとするのなら、この二日間にその端は発する事になるだろう。

「タムタム」

 名を呼ばれたタムタムは普段耳にしないその声の主を向き返り、若干ながらも驚きを隠せなかった。

「な、なに、スカッシュ」

「この二日間、王宮を頼む」

 それだけを告げ王宮の奥へと消えていく。タムタムが呆然と見つめるその後姿は、紛れも無くライナークの騎士団が誇る者のそれだと直感と肌で感じた。この国に、ということはこの大陸全土に影が落ちようとしている。不安で彩られたその瞳が映し出すこの国のいつもの風景を、何としてでも護り抜かなくてはならない。それは騎士団の一員としてではなく、この地に生きる者としての最低限の責務でもある。自らに秀でた力があるのなら、その力を持って、全力で未知の脅威に立ち向かわなくてはならない。いよいよとして沸いてくる不安と決意の入り混じる奇妙な感覚が、タムタムの拳を握らせた。

−11−

 その日の午後はとても麗らかだった。陽射しは優しく、街の喧騒はいつもと変わる事がない。だがその普段を知らないアーメイルにとって、この活気は想像をはるかに超えたものだった。目にするもの全てに驚き、談笑する人々に困惑していた。この風景は彼女にとって異質のものだった。そう感じる理由は彼女の生い立ちがそうさせるのだが、もちろんライムはそれを知る由もない。

「果物はお嫌いですか?」

 王宮からそれほど離れているわけではない。ふと後ろを振り返ればこの国の権威の象徴である王宮は、その威厳を霞めることなくそびえている。しかし、一国の姫君が護衛も何もなくそこを離れ、街の人々と同じように戯れるその姿は、平和といえばその通りなのかもしれないが、アーメイルには無警戒甚だしいと感じるのだった。もちろんまったく護衛がないわけではなく、要所要所に侍従する王宮の者が控えているのだが、リチャードの命により表立って姿を見せていないだけのことだった。そのことはライムも承知の上での、アーメイルの「接待」だった。

「あ、いえ、好き・・・です」

 どうして私はこの国の姫という人間と行動を一緒にしているのだろう。一見冷静に見えるアーメイルの心中は外見のそれと同じくというわけにはいかなかった。数時間前、ライナークの勇者ことライムをはじめとして、名だたる騎士団の人間はこの地から出征していった。各々がどういう理由で発ったのか、細部までは知りえなかったものの、自らの身を目的に魔族が襲来する可能性が高いのである。常識から考えてこんな突飛な行動は愚のそれだと思えた。ただ可能性があるとすれば、アーメイルと魔族との関連性が騎士団の全員に知らされていないということも考えられる。そう考えると恐怖心の欠片も感じられないこのプリンセスの言動には納得がいく。しかし、あのスカッシュと名を呼ばれた剣士が気付かないはずがない。

「ではこれをもらえますか?」

 ライムが手にしていたのはアーメイルにとって始めて目にするものだった。黄色く、楕円形をした、確かに果実に見て取れるそれは表面に突起物が縦横無尽に羅列している。とてもではないが固くて食べられそうになく、まさか甘いものとも思えなかった。

「あいよ姫さん。切った方がいいかい?」

 ライムの返答を待たずにナイフを入れていくこの主人は気が短いのではないだろうか。そんなことを考えつつ、流されるままに一口大に切り刻まれたその黄色い果実を進められるがままに手にとり、口にする。甘い良い香りが鼻腔を刺激したのに、まず味覚が捕らえたのは酸味だった。

「あ、あ」

 初めての味に表情に出てしまったのだろう。困ったようにおろおろするライムはどうする事も出来ずに申し訳なくアーメイルを覗き込んでいる。

「・・・ちょっと酸っぱいですね。ああ、でも美味しい」

 恐る恐る噛んでみると、柔らかな甘味が口中に広がる。奇抜な格好をしているが、味は好きになれそうだった。

「パイナップルと言うんです」

 そう言って微笑むライムに屈託はない。今置かれている状況を考えると、この場から逃げ出してでも、この地を離れるべきなのかもしれない。あまり人と関る事は避けたかった。無益な殺生を目の当たりにしたくないというのも事実であるし、せめてこのプリンセスの絶望に歪む顔は見たくなかった。

「パイナップル」

「はい。はじめてでしたか?」

「・・・はい」

 おかしいことだっただろうか。パイナップルと呼ばれたそれ以外にも、軒先に並んでいる食用と思しき面々には知らないものが多い。そもそも食事ということに無関心な故郷だった。この賑やかで活気に溢れるような場所などありはしなかったし、想像するまでに見せ付けられたこの地の現実は、やはり受け入れるのに若干時間がかかりそうだった。それほど、この地とかの地はあらゆる面でかけ離れすぎていた。

「アーメイルさんは、どこから来られたのですか?」

 ライムはたどたどしくも両手でパイナップルを一つ抱え、特に何某かの意志があるようには見えない口調で、アーメイルにとって沽券にかかわる最重要の疑問を口にした。答えないわけにはいかない。だが、答えられるものではない。このプリンセスは自身に関しての情報を、周囲から与えられていないということを直感した。その真意は図りかねたが、間違っても真実を答えとして伝えるわけにはいかなかった。

「遠い、ところです」

 だからといって嘘もつけなかった。このプリンセスは信頼に足るかもしれない。人としての側面以外の自らを併せ持つアーメイルも、彼女の持つ穏やかでいて広い懐を傷つけたくなかった。だからこそ、そう答えるのが精一杯だった。それがアーメイルがライムに対して示すことのできる誠意の限界だったといっていい。人を知らない少女は、この数日間で自らの持っていた世界観が急変するという事態に動揺していた。

「そうですか。あ、向こうに座りませんか?」

 そう指差した向こうには軽い丘陵が見て取れる。鮮緑で染め上げられたそこは、小さな子供達の遊び場となっているらしかった。

「こんな風景、私は知らない」

 風に乗せてどこかへ連れて行ってほしかったその言葉は、ライムの耳に届く前に、その願いを携えて空中へと舞い上がった。

「え、何か仰りました?」

「いえ。あ、私が切ります、それ」

 そうやってライムから半ば奪う形でパイナップルを手にする。ライムの意識を何かに向けなければ。ふとすると余計な言葉を口にしてしまうのは、これまでほとんど人と接した事のないアーメイルにとって仕方がないかもしれないが、それは言い訳になるが理由にはならないのが自身もよく解っていた。もどかしく、晴れることのない暗澹たる胸の重石は、蝕むかのように、誇示するかのように、アーメイルを嘲けるように笑っていた。

−12−

 魔界という地は、人々が想像する陰惨さと荒廃の極地そのものである。空という概念すらなく、言い換えてみればそれは赤と黒が支配する空間という表現に当てはめられる。その地にあるものは獰猛な生物と、それを駆使するより屈強な魔族の群れ。そして幾星霜に渡り覇権を争ってきた一握りの魔王と呼ばれる存在のみが犇く場所である。その魔王の一人であるバルテノスが支配する地の片隅に、彼らはいた。

「何よ、急に呼び出して。どうでもいいことだったらぶっ飛ばすからね」

 ベラドンナの機嫌はリイム達との一戦から直ることがなかった。右手で栗色の髪を梳かす癖もジギタリスが何度言っても直りはせず、ジギタリスもすでに諦めていた。魔界で言う片隅とは、外界との接点が近いという意味で用いられる。バルテノスから与えられたガーニドの屋敷は、人間界で言うところの王室が誇る宮殿のそれに、外見としては近い。だがその内部も荒れ果てており、機能しているかどうかは疑問である。

「お前達。許可もなくライナークまで足を伸ばしたらしいな」

 ガーニドは魔族である。魔族と一言でいってもその種族は多岐に渡る。純粋な魔族であり悪辣なまでの力を持つ魔王と呼ばれる存在たち、つまりバルテノスやゲザガインなどは基本的に不老不死であるが、そこまでの者は魔界でも数名程度であり、ガーニドのような一枚も二枚も落ちる輩で占められているのが実状でもある。もちろんそれでも、一般的な人間がどうこうできるようなものではない。

「それがなによ」

 ジギタリスとベラドンナは、表向きはガーニドの部下という立場にいる。だがその実はガーニドが仕えるバルテノス自らが直轄しており、ガーニドも強く非難できないという人間界そのものの柵がそこにもあった。どの世もいつの世も、人であろうが何であろうが行きつく先へ行きついた後はそれほど変わりがないという事である。もちろんそれが望まれるものであるか望まれざるものであるかはこの場合問題ではない。

「人間界でも事は隠密にと言っておいたはずだ。今この時に余計なことをするな」

 魔族は外見を変えられるものが多い。ゲザガインもバルテノスも本来の姿は凶悪で強大な邪竜の姿をしているが、普段は行動に支障の少ない人の姿をしている。ガーニドも普段は人の形をとっており、人間でいうなら年の頃は四十代半ばで髪は後部は若干刈り上げられ、それ以外は何かで固めてあるのかまるで岩のようで、ベラドンナは兄のそれとは正反対のガーニドの髪が気に食わないでいた。

「あの女を発見したのでな。ライナークだとはわかっていはいた。勇み足だったかな」

 ジギタリスは勝手知ったるかのようにそのあたりの適当な木製の椅子に腰を落ちつかせ、ガーニドに告げた。

「何でよ、邪魔しなければアーちゃんだって捕まえてきたって何度も言ってるでしょ?」

 いよいよベラドンナの語気が荒くなってきている。ジギタリスにはそうではないが、ベラドンナは負けん気が強すぎて周囲に対して注意が散漫になる事が多々あった。それを補佐するのもジギタリスの役目であり、二人は常に行動を共にし、それが互助作用となって働いていた。

「あのままではどうなっていたか解らない」

 腕を組んだまま微動だにせずその場にいた蒼月がようやく口を開く。蒼月もガーニドの部下という扱いだったが、経緯が経緯だけにガーニドにとっても扱い難いのは事実だった。バルテノス様も何を考えてこの布陣なのか、たった一人の少女の拉致が目的ならこの三人よりも迅速に確実に自分一人で充分その役目を果たし、その手柄を持って取り入る事が出来るのに。それがガーニドの本音だった。

「言うじゃない。あんたも見てたでしょ。あんな連中、私達二人で何とでもなるわよ。ね、お兄ちゃん」

 同意を求められたジギタリスは軽く微笑むだけで徐に意志を発しなかったが、本音としてはベラドンナと同じであるという事が窺えた。

「その「あんな連中」にゲザガインは二度も苦渋を呑まされていることを知らんわけではあるまい」

 この言葉はガーニドの本意ではない。この部分においては、ガーニドと兄弟の本音は同意のものである。

「そんなの、あのバカが不甲斐ないだけじゃないの」

 つまらなさそうに文句を言うベラドンナだが、内心ガーニドも頷いていた。だからといって勝手にライナークの勇者軍とやりあったことをバルテノスが看過する事は無いだろう。確かにゲザガインは過去二度にわたりライナークの勇者軍に侵攻を阻まれている。そのゲザガインの実力はここ数百年かなり激しい頻度で衝突を繰り返しているバルテノスが一番知っているといってもいいかもしれない。だからこそ、バルテノスは今回の件に当たってリイム達との接触を禁じていた。それを彼らは破ったのである。

「ヤツらを甘く見るな」

 蒼月の言葉は重く、直接脳髄に畳み掛ける感じがしてベラドンナは不快だった。ガーニドはともかく、全く得体の知れない蒼月と目的を共にしろというバルテノスの真意も解らなければ、ベラドンナにとって蒼月の根本的な目的も図りかねおり、さらに魔族ではなく、獣族と人間族との混血である彼を疎ましく思わないはずがなかった。蒼月の言葉にベラドンナは睨みつける形で一瞥すると、くだらないといった感じで溜息をついた。

「何にせよお前達は一度戻る頃合だっただろう。残されている時間は・・・」

「わかってるわよ!」

 ガーニドの言葉尻を捕らえて、苦々しくベラドンナは言い放った。ジギタリスとベラドンナにある確実な負い目が一層彼女の苛立ちを増幅させる。生まれを憂いたことなどないが、ただこの一点のみは誰にも触れてほしくない傷だった。それを示すようにジギタリスの姿はいつのまにか部屋を後にしている。いつもの魔界のそれとは違う冷たい刺すような空気は、しかしガーニドにとっては心地良いとさえ感じるものだった。

「急いだ方がいい」

 蒼月の言葉に振り向いたガーニドは、次の言葉に絶句する。

「スカッシュが、生きている」

−13−

 クレイアの町の自警団から聞いた話には、モーモーにとって予期していない事柄が二つあった。まずはスカルたちの行動に統一性がないということ。ただ一つの目的による蛮行ではなく、スカルたちは乱雑に、そして目に付くもの全てに対しての破壊を繰り返しているらしかった。

「こう言っては何ですが、我々の手に負えないというほどでもなかったです。確かにキリがないといえばキリがないんですが、個々を撃破するのは容易いんです」

 自警団の長である青年は、年の頃で言えば二十代の半ばだろうか。隆盛というほどではないがほどよく引き締まった肉体と、歯切れの良い聞き取りやすい彼の口調には好感が持てた。これだけでも彼が信頼を得ている人物だという事が窺い知れる。

「ということは、やはり陽動だったか」

 僅かな失望を込めた溜息と共に、モーモーが苦々しく言った。そしてもう一つの気になる点。それは指揮官がいないという点だった。

「見かけてません。数で押し上げてきています。幸い町の中心部までは被害が出てませんが、やはり我々だけでは時間の問題です」

「例えば、一体だけ形が違うとか、色が違うとか、そういうスカルもいませんでしたか?」

 リルルの言葉に青年はしばし考える仕草を見せたが、予め答える言葉が決まっていたかのように言った。

「いえ。どれも同じですね」

 町の中心部は閑散としていた。軒先にはおそらく支度をする間もなく避難した後なのだろう、商品などがそのままにされたままで、知らぬ人間が訪れるとおそらくゴーストタウンとでも表現するだろう。そして中心部から距離を置いた港湾部から怒号や鉄の衝突し合う喧騒が聞こえてくる。自警団と、おそらく町の男たちからなる有志達、ざっと見るだけで三十人程度か。それに対し一見白い壁にすら見えるスカルたちは数える気すらしない。三桁であることは間違いなく、しかもそれらは気味が悪いことに見事に同一の形状だった。少年の頃の人間から皮と肉をまるごと剥げば、ああいう骨格が現われるのだろうか。それぞれ粗末な布とスカーフらしきもので体と頭部を覆っているが、正直その中身は拝みたくないというのが本音だった。個々は見下ろせるほどで、手にする刀剣も切れ味は恐ろしく悪い。それは「斬る」より「叩く」武器であるが、さほど脅威とは思えなかった。

「すごい数ですね」

 リルルが言うようにやはりその数だけは厄介だった。そもそも真っ当な生き物ではないスカルたちはその動力を魔導の力から供給されている。かつてのトランプは彼らの同族であったため指揮は比較的簡単だったのだが、今回はそうではない。おそらく何者かが純粋に魔導の力のみで遠隔操作をしている。そしてスカルたちはその動力源、つまりその「何者か」を打倒しない限り砕けた部分は自己修復され、その命に従い続ける。

「厄介だな」

 さながらそれは戦闘ではなく規模の大きな喧嘩のようで、モーモーにとっても拍子抜けであった。自警団や町の人間に死者こそいないということだったが、スカルたちは倒されても破壊されても起き上がり、ひたすら目に付く建造物を破壊し、人々に襲い掛かっていた。その指揮官の姿が見えない以上根本的な解決としての選択肢は多くない。

「リルル。シャルルに代われ」

 予期していていたのだろう、リルルは懐から小さな玩具であるピコピコハンマーを取り出しモーモーに手渡すと、彼は軽くリルルを叩いた。

「っと」

 場に相応しくない奇妙なビープ音と共に、リルルであった彼女は瞬時にシャルルと呼ばれる少女となる。この町のみでなく、ライナーク王国という大局的な観点から状況を鑑みた場合、時間に余裕などあるはずもなく、可能な限り迅速な対処が求められている。それはモーモーもシャルルも、あの翼竜の兄妹に遭遇して以降嫌というほど自覚していた。

「さーて、派手にぶっ飛ばしてやりますか!」

 シャルルは待ってましたと言わんが如く手にしていた杖を掲げ、懐から僅かに黄味がかった握り拳大の鉱石を取り出した。この琥珀を媒体として魔導を使用するのだが、規模や効果により魔導に集中する時間は比例する。

「こら」

 早速詠唱を開始しようとしたシャルルをモーモーが軽く彼女の頭を小突いて嗜める。

「痛い!何すんのよ」

「お前はいつもいつも。自警団ごとぶっ飛ばすつもりなのか」

「あ」

 今思い出したかのように戦況を再確認するシャルル。勝ち気で短気、陽気でパーティの華である彼女のさらなる欠点は、その後先考えない計画性の無さに加え、おそらく「慎重」という言葉が彼女の辞書には無いという危険性すらも孕んでいた。

「お呼びですか」

 モーモーはすぐさま自警団長の青年を呼び、合図と共に一度全員を引き上げさせる旨を通達した。だが、それには今は瓦解してしまっている防衛線を張り直す必要があり、かつ瞬時に行動できるようにその全員が戦いの最中でも一点への注意を継続しなければならない。モーモーや騎士団のような戦闘のプロならばともかく、有志で集った士気の高い自警団と町の男たちといえども、それは容易ならざる事だと言っていい。

「一撃でカタをつけられるか」

「私を誰だと思ってんの。相手が生き物でない以上、時間さえくれれば一瞬で光に還してみせるわ」

 リルルの面影など容姿を除くとまったくといっていいほど無いシャルルは自信たっぷりに笑みを浮かべた。

「町の人間に悪影響が無いわけじゃないから。出来れば私とあいつらが対峙する状況がベストね」

 ここまで時間が経過して一変しない戦況とは、つまるところ五分という事なのだが、自己復元するスカルが相手という事を考えると分はこちらにあるということだ。極限まで昂ぶった精神は一定の間肉体の疲弊を凌駕する。もちろんその一定の間という条件を超えると、その後は想像に難くない。

「よし、俺に任せておけ」

 モーモーは意を決したのだろう、シャルルに目配せすると、彼女もその意を汲み、薄く微笑んだかと思うと懐に直していた琥珀を再び取り出した。一瞬にして周囲の空気が変わる。空気が圧縮されるような、それは言うならば空の威圧による暴行に思えた。声を発することも苦痛なのか、僅かに聞き取れるかという程度の呻き声を漏らして青年が蹲った。両手で頭を抑え、必死に空から逃れようとしている。

「離れていたほうがいい。しかし、ここまで強烈なのも久々に見るな」

 青年に肩を貸すと一区間ほど後ろの小道で彼を休ませる。それだけで幾分か楽になったのか、ここでようやく「すいません」と小声を捻り出した。

「俺が走り出してから三分だ。三分で一気に引き上げさせられるか?」

「任せてください」

 先ほどのそれよりは力強い言葉で青年は頷いた。満足そうにモーモーもそれに倣うと、町を護る一心でスカルたちとやりあう前線を睨みつけた。一体何が目的なのか。もし陽動以外にあるのなら、それは諦めて敵方の術中に絡め取られよう。だが、時間を稼ぐのが目的なら、その思惑すら笑い飛ばせるほどに素早くカタをつけてやる。王国騎士団を、ライナークを甘く見ないでもらおう。モーモーの心中は憤りに煮えだっていた。

−14−

 ヴァイスは王宮への帰途を急いでいた。騎士団の中でも一人で王宮を発った彼の目的は「聖石ヘリン」の情報収集、最終的にはその入手にあった。聖石といえば聞こえは良いが、果たして大陸中でどれだけの人間がその存在を知りうるのか。物質としてはそのあたりに転がる石と何ら変わりないと伝えられている。発祥は南の古びたアテレナという村にあるとされるが、ヘリンを原因とする抗争など聞いたことが無かった。それはつまり、民衆がその価値に魅力を感じていないという事でもある。古代史を研究するような学者たちには知らない者はいないほどの物であるが、それを欲する学者もまた、誰もいないはずだった。ヴァイス本人もかつての遺跡荒らしの経緯で知るに至ったが、やはり興味を示さなかったのも事実である。

「売れねーんじゃ仕方ねぇもんな。持っててもそれがどうした、という物だったし」

 あの日リチャードにはそう言ったものである。ヘリンを入手してのその先には興味があったが、どれだけ考えても納得のいく答えにはありつけなかった。それくらい、「無価値な聖なる石」というのが知る者の常識なのである。そして結論としては、あまりにも簡単に手に入った。それは聖石ではなくその所在の情報が、であるが。アテレナの村には数時間でついた。ヴァイスの駆る早馬を持ってすればそれでもやや時間を要したほどだった。

「聖石はこの村にはありません」

 リチャードの勅書とともに早速村長を訪ねたヴァイスを待っていたのは予想外の言葉だった。「虹色の魔石抗争」の際はこの村に保管されているとの事だった。保管といっても村長個人が所持しているという程度のものであったが。だからこそある程度の確信をもってこの村へと急いだのだが、放って置くと干からびそうな村長だという老人はいとも簡単にヴァイスの希望を打ち砕いた。

「どういうことだ」

 風貌からはとても信じられないのだろう、訝しむ視線をヴァイスに向けながらも、真相を語りだした。老人の話は前置きが長く、間に口を挟むとその部分から一定以上巻き戻っての再開に何度も殴りかかろうとする意識を抑えていたヴァイスだが、途中から不穏な単語が出てくるにつれて額に脂汗を流すようになっていった。恐れていた事態が、起きはじめていた。

「あのように禍々しい竜など誰も見た事がありません」

「あの二人は物腰こそ穏やかでありましたが、抵抗は許さないという意志を滲み出していました」

「白い男と赤い女。あの眼は・・・」

 そうまで言うと村長は口を噤んでしまう。練達の戦士であるヴァイスですら、純粋な戦闘では太刀打ちできない存在であるあの二人を前にしての聖石の譲渡は、とてもではないが責められるものではなかった。もし何らかの形であの二人の機嫌を損ねていれば、こんな閑散とした村など跡形も無く吹き飛ばせるだろう。ジギタリスにもベラドンナにも、その程度は容易い事と思われた。

「解った。もういい」

 合点がいかないのはやはり聖石ヘリンである。疾駆に紛れながらヴァイスの心中は荒ぶる予感で支配されていた。もちろんその予感の内容は望むものではない。陽が落ちかけていた。よもやその日のうちに帰参することになるとは思いもしなかったが、今この瞬間でさえ、手隙の王宮を急襲される可能性は・・・いや、それはもう可能性とは呼べないかもしれない。確定した未来がヴァイスに絶望を予期させた。

「!」

 だが。今日という日はどうにも想像する事柄全てを否定しなければならないらしい。ヴァイスははるか上空の存在に気付くと、その場で馬から降りた。それに満足するかのように上空のそれは徐々に高度を落とし、赤い人影が、以前のそれと同じようにヴァイスの前に立ちはだかった。

「こんにちわー」

 栗色の髪の赤い少女は、にこやかな笑顔を携えてヴァイスに握手を求めた。あの脂汗は冷や汗となり、喉を過ぎようとする唾は上手く嚥下されなかった。何も言わずその手を握り返す。いつものような軽口すらも出てこなかった。身体全身が恐怖という名の信号を発していた。

「あれ、どしたの。具合悪い?」

 ベラドンナはきょとんとした表情でヴァイスの顔を覗き込む。華奢な手は容姿相応の少女のそれと何ら変わりない。それでも恐怖する自分が情けないが、やはり人としての性なのだろう。ようやく口にした言葉もたどたどしく、まるで話にならなかった。

「ヘ・・・ヘリン、は」

 思い出したように目線を上げ、ベラドンナは懐から手のひらに乗る小さな白い小石を取り出した。

「これがヘリン。残念でした。でもよくこれに気付いたわよね」

 そういってまた懐へ戻す。彼女の向こうに見える夕陽が鮮やか過ぎてヴァイスの目に痛かった。その夕日の手前にあの翼竜に乗ったジギタリスが以前のそれと同じように佇んでいた。あの時と違うのは陽の位置と、そしてこちら側の戦力差だった。

「一人、か。クレイアに二人か三人。となると王宮は三人か四人というところかしら」

 人差し指で頭を指し、難解な計算式を読み上げるようにベラドンナは言った。王宮の精鋭の中でもクレイアへ向かったのはモーモーとリルルの二人。そしてアテレナへはヴァイス。ベラドンナたちの計算では王宮に残るのはリイムを核とした数人というところなのだろう。

「本当はあの雷光の騎士さんとやらがクレイアへ行っちゃってくれれば話は早いんだけど」

 一人心地で話を続けるベラドンナ。そんな中でヴァイスに一途の光明が見え始めていた。話を聞くとクレイアは陽動で間違いない。となれば高々スカルたちの殲滅など、あの二人なら容易いはずだ。場合によってはかなり早い帰参を期待できる。となれば、ヴァイスに出来ることもまた、自ずと理解できた。時間稼ぎに他ならない。覚悟を決めた。撃破する事も逃れる事も出来ない敵を前にしての覚悟は、あの夕陽に当てつけた。だが。

「まあでも、何人いてもあの狼さんがやっつけてくれるんでしょうけど」

「・・・何だと?」

 まずい、と感じた。今の王宮には病み上がりのタムタムしかいない。その事を知ってか知らずか、いや、知らないはずなのにベラドンナは言葉を続けた。

「私個人的には全員相討ちとかが望ましいんだけどなー」

 時間稼ぎなどしている場合ではない。どんな手段を用いてでもこの場から王宮へ急がなければ。だが、ベラドンナの言葉に気になる点があった。

「蒼月は仲間じゃないのか」

 ベラドンナの先の言葉は蒼月を指しているはずだ。果たして魔族の間にも人間と同じくした絆や信頼といったものがあるのかどうかは定かではないが、彼女の言葉は穏やかな物言いではない。

「仲間?」

 初めて聞くような、意味を理解しかねるといった表情でベラドンナは少し考える素振りをした。そして少し間を置いた後クスリと鼻で笑いを漏らした。

「何がおかしい」

「仲間って、なに?」

 答えに窮したわけではない。だが、咄嗟に言葉が出なかった。それほどに騎士団の中では常念となっていることが、ベラドンナたち、もしかすると魔族という種族全体にとっては未知のものなのだろうか。

「駒、かな。表現するとしたらそれが一番妥当ね」

 自分でも満足行ったのだろうか、勝手に頷きながらベラドンナの口にした言葉は意外なものだった。

「駒、だと」

 不快というわけではなかった。敵としても一枚岩ではない。そう考えると現状はさて置いて多少は与し易くもなる。ヴァイスにとっても魔族を通した魔界というものは未知の領域であったし、魔族に真正面から抗うほどに自信過剰かつ愚かではない。それでも、知る存在が魔族と目的を同じくしているという事の因果を看過できるほどに馬鹿でもなかった。得てしてこういう人間は揉め事の中心となる。

「だって、ねぇ。私とお兄ちゃんの二人で何だって出来るのに、さ。あんなケモノの手なんて必要ないのよ」

「ベラ」

 空中からジギタリスの嗜める声が響いた。距離はかなりありはずなのにその声は透き通り、まるで空気を介せずに直接取り込まれていくような感覚は、ヴァイスにとって良い感じはしない。

「もういいだろう」

 ジギタリスの言葉はヴァイスにとって良くないものの宣告に等しかった。簡単に時間を稼げる相手ではない。むしろ生きて帰参する事も叶わないかもしれない。王宮に蒼月が急襲をかけているのなら、最善の答えはこの兄妹を打破し、返す刀で蒼月を、なのだが、それはもう妄想に近かった。

「あんまり無駄な争いってしたくないの。この服お気に入りだし」

 ベラドンナは独特の襟が存在感を誇張する赤い装束を摘むとそう言った。両肩の際から下腹部を結ぶ襟は淵を白く取られているが、それ以外は全て赤い。軽装ではあるがそもそも格闘に長けているという風ではない彼女にはああ言ってもどうというものではないのかもしれない。それほど、ベラドンナは兄であるジギタリス以外に執着するようなところが見えなかった。逆にジギタリスはそのほとんどが謎であった。

「で、大人しく殺されろってか」

 時間が潤滑油の役目を果たしているのか、ようやくヴァイスも口調だけは本来のそれに戻りつつあった。

「それも選択肢の一つ。私達も鬼畜じゃないわ。望むなら苦しまないように一瞬で殺してあげる」

 この言葉は真意だろう。彼らにとってヴァイスなど所詮、「多少は腕の立つニンゲン」に過ぎず、魔族にとって人間など笑いながら葬り去れる卑小な存在でしかなかった。人間の地に魔族が降り立つという事態は、即ち人間にとっての世界の終焉を意味しているともいえた。それを二度にわたり救ったのがリイムを核とするライナークの王宮騎士団であり、英雄と称されるリイムの偉業は、人々が賛辞するそれ以上に意義のあることだった。

「もう一つは抵抗ね。やるだけやってみる?あなたならこれを選ぶのかしら」

 促してもいないのに言葉を続けるベラドンナ。本質として他の魔族のように悪意に満ちているとは思えなかった。

「あとは寝返りかな。歓迎はしないけど保身ならそれが妥当ね」

「話にならんな。それで終わりか」

 夕陽に打ち据えた覚悟を再燃させる。だが、ベラドンナはさらに続けた。

「最後。これはあなたに気前よくプレゼントね」

「なんだ」

「ここでじっとしていること。そうね、きょう一日くらいかな。暇ならお話し相手くらいにはなってあげるわよ?」

 風雲は急を告げていた。これはつまり、今この瞬間に王宮に危機が訪れていると通告されているのと道義だった。このまま二人と翼竜を振りほどいて救出に向かうか、しかしそれは彼らをも王宮へ誘う事になる。希望としてリイムもスカッシュも、クレイアから二人が戻り、あの時の戦力として対峙出来るなら、いやそもそも魔族の存在を知らない国民に彼らの姿を見せるわけにはいかない。尽く塗りつぶされていく選択肢に、ヴァイスは意を決した。

「待つことにした?それが一番賢いと思うんだけど」

 ベラドンナの言葉に裏表は感じられなかった。確かに、保証はないが彼らならこの時点で命を見過ごすかもしれない。その気がないならすでに全ては決しているはずだ。そうした場合、蒼月が取る行動の確信のない事も判断に苦しむところだった。

「蒼月はね。アーちゃんを攫ってくるだけ。もちろん抵抗すればどうなるかわからないけど」

 ベラドンナはヴァイスの思惑をあざ笑うかのように一歩先を行った。ここまで言動の先を取られると閉塞感でどうにかなってしまうのが人間の常だが、そこまでヴァイスは弱くはない。

「やはりアーメイルか」

 アーメイルが何者なのか、ヴァイスも計り知れない部分があった。アーメイルが魔族の血を引くという事を知るのはリイムとスカッシュ、そしてリチャードだけである。しかし、魔族から執拗にその身を狙われる彼女自身が沈黙を通しているとなればアーメイルが魔族と何らかの関係を持っているという事は自然に想像が行く。その確信をもてないでいるだけであるが、まさか血を持つなどというところまで想像するまでには至らない。それが普通なのだ。

「なら答えは簡単だな。二つ目だ」

「二つ目?」

 忘却の糸を辿り寄せていくベラドンナがその答えに思い当たったとき、ヴァイスの姿はそこから消えていた。

「甘いのねぇ。だからニンゲンなのよ」

 そう呟いたベラドンナを囲む夕陽の光が輝き始めた。魔導の兆候だった。

−15−

 タムタムはこの日自室で、すでに数え切れないくらいの溜息をついた。ヴァイス、モーモーとリルル、リイムとスカッシュの各々が王宮を後にしたのはまだ昨日の事ではあったが、すでに数日分の緊張で精神の方が疲弊していた。彼女はあれからスカッシュがタムタムに告げた言葉を引き摺っていた。彼の台詞は、昨日、そして今日という日に限定されていた。その根拠こそ知る由もないが、彼の言葉に虚偽などないことだけは確信していた。

「はぁ」

 気が気でないタムタムは何十回目かの溜息をつくと、堪らなくなって部屋を出た。少しでも動いていれば気も紛れるかもしれない。このままだと想像は悪い方へと誘われたままで参ってしまうかもしれない。それならば少しでも頭の中の想像を進行させないためにも、外の空気を吸いたかった。

「あ」

 木の擦れる音と共に扉が閉められる。その時、背後から知った声がタムタムの耳に届いた。

「あら、アーメイル」

 今にも扉をノックしようとしていた風のアーメイルが驚いたのかその場で硬直していた。当初タムタム達に対しての恐怖、見知らぬ者達と行きずりに近い形で行動を共にする違和感から距離を保っていたように感じられたが、どうやらそうれだけが原因ではない、何か確固たる意志から係わり合いを避けている、タムタムにはそう感じられるようになっていた。

「どうしたの?」

 あまり強く押してはいけないと思う。まるで操られているかのように、こちらが寄れば同じだけアーメイルは引く。ならば彼女からこちら側に一歩でも歩み寄ってきてくれるのを待つしかない。そうすれば、こちらが引く必要はない。僅かであっても、どれだけの時間がかかっても、距離を縮めていけばいいというのがリイムの出した結論だった。そしてそれは、おそらく正しかったのだと今では思うに至っている。一時に比べるとアーメイルの表情は種に富んで、年相応の少女らしい仕草、言動を見せるようになっていった。ただそれだけでも、単純に嬉しかった。

「あの・・・」

「ん?」

 アーメイルはまだ言葉数は少ないものの、歯切れが悪いところをみたことはなかった。発する言葉をまず咀嚼し、よく検討して、時点をも考慮して、ようやく口にするという印象があったのだ。だからこそ、今の彼女には只ならぬ違和感と、そして悪い予感を齎す雰囲気が同居していた。

「今までお世話になったことの、お礼を」

 思わぬ彼女の言葉に絶句してしまうタムタム。しかしそれでも、それが彼女の本意ではないと思われた。そして、そう信じたかった。

「ど、どうして」

 アーメイルがあの裏寒いが長閑な農道で、まるで涯てを見るような目で一点の空を眺めていたことを思い出す。哀しみを感じたわけではない。だが、只ならぬ決意だけを感じた。ジギタリスとベラドンナの一件を別としても、あの悲壮なまでの佇まいからリイムがそのまま通り過ぎるとも思えなかった。こういうのを運命というのだろうか。言葉にするとひどく陳腐な印象を受けるものの、現状を言い表すのにこれほど適した言葉もそうはなかった。

「何か、あったのね」

 アーメイルは黙して語らない。この目だ。その長い髪と同じくした藍色の目が、容姿に不釣合いなくらい強い意志を携えている。

「ありがとうございましたと、皆さんと、ライム様に」

 白い、アーメイルの肌に同調するような身軽い服装が、感じないはずの風に揺れた気がした。言い残す事はないという感じで踵を返すと、そのまま王宮の廊下の奥に見える外観へと歩んでいく。ただどうすることも出来ないタムタムはその場でしゃがみ込んだ。

「どうして・・・」

 同じ言葉を何度も繰り返す。今なら追いつけるだろう。力ずくでなら彼女の身を確保できる。だが、それではあの二人と何も変わらない。彼女の自由意志でこの王宮に居続けることこそが、スカッシュの意志でもあったはずだ。

「私は・・・どうしていつもいつも」

 廊下を彩る赤い絨毯が滲んでくる。赤いそれはおぼろげに広がり、一粒の涙と共に少しだけ元に戻る。それを数度繰り返した。悔恨ではない自責の念が彼女を取り込んでゆく。

「タムタム?」

 またも知った声が耳に届いた。目元を拭くことすら忘れて振り向くと、そこにはライムの姿があった。

「あ、姫様」

「アーメイルさ・・・ど、どうなされたんですか」

 タムタムは慌てて袖を目元に当てる。その時だった。脳髄を電撃が走るかのような感覚が彼女を襲う。頭の頂点から爪先までを一気に駆け巡る電撃がその正体に思い当たったとき、タムタムは立ち上がり、ライムの両肩を掴むと力強く言った。

「姫様。自室へ。私がいいと言うまで決して部屋を出てはなりません」

「え、それは・・・」

「お願いします」

 タムタムのこれほどに重圧的な声を、ライムは聞いた事がなかった。ライムには今のタムタムをただ恐いと感じる。それでもタムタムの意志を尊重する。何かがある。それだけはライムにも理解できる。だがその本質を見抜けない限り、役立つよりは足を引っ張る事の方が多いであろう事も、容易に理解できるからだ。

「わかりました」

 ライムはそれだけを言うと、それ以上は何も言わず、真っ直ぐ自室へと歩みを進める。その後姿を見送ると、タムタムは一度自室へ戻り、持ちなれた肩ほどまでの杖を手にする。懐には貴重な琥珀もいくつか常備している。それ以上、何もいらなかった。

「後ろを見ている時じゃない」

 呟いたのではない、決意の確認だった。

「あ、タムタムさん、こんにちわ」

 正門に待機する少年兵に声をかけられる。「ご苦労様」と労うとともに、タムタムは衛兵達に詰め所へ戻るように指示した。これから待ち受ける事態は、もしかすると彼らにとって想像を絶したものになるかもしれない。さらに言うなら、出来れば犠牲者は少ない方が良かった。

「さてと」

 その言葉と同じくして、城下に賑わう街並みと今この正門前の二つの階段、それらを結ぶ一本道に、よく手入れの行き届いた草原を挟んでの畦道に、その姿が見て取れるようになった。後ろにアーメイルの姿があることは予想の範疇になかったが、今はそれどころではない。

「止まりなさい」

 出来る限り威圧を込めた言葉で。せめて自己を見失わないようにと、相手を威嚇するように。まさか臆したわけではないだろうが、その場に立ち止まった彼に、タムタムは言葉を続けた。

「望みは何?」

 両足が震えていた。油断すると言葉さえも同調してしまいそうで、極度の緊張にあった。

「スカッシュは」

 ややしゃがれたような声が空気を伝い、タムタムへと届けられる。俯いたまま顔をあげないアーメイルを連れ、ここへ来た意図はどうやらスカッシュのようだった。両の腕を組んでいるのと鋭い眼光はあの時と何ら変わりはなかった。マリンブルーの上半身が陽に映えて、それはとても美しいものに見えた。アーメイルがタムタムの元から逃げるようにさったのはたった半刻ほど前。彼女は、この現状を直感していたのだ。

「アーメイルも人が悪いわね。最初から言ってくれれば良かったのに」

 アーメイルは答えるどころかピクリと反応するだけで、顔すらまだ上げなかった。

「賢明な判断だがな」

 青い狼。蒼月が言った。アーメイルが只者ではない事はタムタムも薄々気がついていた。だが、蒼月ほどの使い手が発する独特のプレッシャーに先に感づいたのもアーメイルだったという事になる。事は既に全てに於いて手遅れだったが、タムタムは彼女の心意気が悲しかった。

「私が出向けば・・・」

「引っ叩くわよ?」

 アーメイルの言葉を最後まで受け取らず、まるで台本でもあるかのように決まった台詞を投げ返した。

「スカッシュはここにはいないわ」

「そうか」

「まさかそのまま引き返したりはしないわよね」

「どういう意味だ?」

 蒼月が意外だと言わんばかりに言う。聡明な男である。ここで事を構えることがどういう意味を成すかを解っていた。そしてタムタムもそれに倣うとまで確信していたからだ。

「アーメイルを返しなさい。・・・と言っても聞かないでしょうから、力ずくでということよ」

 もちろん本意ではない。王国で並ぶ者のいない琥珀使いであるタムタムも、真っ向から戦って勝てる相手だとは思っていない。それでも引くわけにはいかなかった。犠牲になるつもりはない。アーメイルを行かせるわけにはいかない。勝てるとも思わない。様々な思惑と矛盾をタムタムは内包していた。言い換えればそれが「人」である。最善の選択肢が解っていても理念と行動は決して常に同じではない。愚かだが、それは可能性に満ちていた。

「下がれ」

 蒼月は、タムタムにではなくアーメイルにそう言った。そして携えた鞘からやや曲がりの大きな細身の剣を抜き出した。空では燕だろうか、青に混ざった僅かな白に融合する大空を滑空している。それ以外、彼らを見つめるものはいなかった。

 

2部へ